大判例

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青森地方裁判所 昭和42年(た)1号 判決 1978年7月31日

本籍 青森市大字沖館字篠田一五番地

住居 同市篠田一丁目二五番一九号

板金工 米谷四郎

大正一〇年七月一二日生

右の者に対する青森地方裁判所昭和二七年(わ)第四九号強姦致死・殺人被告事件について、同裁判所が昭和二七年一二月五日に言渡した確定判決(認定罪名は強姦致死で、昭和二八年八月二二日仙台高等裁判所において控訴棄却の判決があり、同年九月六日確定)に対し、被告人から再審請求がなされ、仙台高等裁判所が昭和五一年一〇月三〇日再審開始の決定をし、同決定が確定したので、当裁判所は、検察官吉田賢治・板橋育男出席のうえ、さらに審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人は無罪。

理由

(理由目次)

第一  本件公訴事実及び原第一審認定事実・・・17

第二  本件再審公判に至る概要・・・18

第三  本件再審公判の問題点(争点)・・・18

第四  目撃者柴田武良らの目撃供述についての検討・・・19

一  目撃の概要・・・19

二  目撃現場及びその附近の地理的状況並びに天象・気象状況・・・19

三  目撃時刻・・・20

四  犯行時刻(被害者の食後死亡までの経過時間)・・・21

五  目撃者らの位置関係・・・22

六  目撃者らの識別内容等・・・22

七  識別能否に関する検証結果・・・24

八  目撃供述の信憑性・・・29

九  まとめ・・・30

第五  遺留精液斑と被告人との結びつきの可能性についての検討・・・30

一  被告人の血液型・・・30

二  本件遺留精液斑の血液型判定についての問題点・・・31

三  遺留精液斑及び赤石第二、第三鑑定・・・31

四  各鑑定の検討・・・32

五  まとめ・・・36

第六  被告人自白の検討・・・37

一  自白に至る経緯・・・37

二  自白の任意性・・・37

三  自白の信用性・・・39

四  長内芳春の自白・・・50

五  まとめ・・・55

第七  結論・・・55

(用語例)

<裁判所の表示>

「原第一審」――被告人に対する昭和二七年(わ)第四九号強姦致死・殺人被告事件を審理した青森地方裁判所

「原第二審」――右事件の控訴審である仙台高等裁判所

「棄却審」――再審請求棄却決定をした青森地方裁判所

「抗告審」――再審開始決定をした仙台高等裁判所

「東地裁」――長内芳春に対する昭和四二年合(わ)第五七号強盗殺人・強盗強姦未遂被告事件を審理した東京地方裁判所

「東高裁」――右事件の控訴審である東京高等裁判所

<記録の表示>

「東地」――東地裁の事件記録(全一八冊で、東地二の一、二の二冊は原第一審、第二審の事件記録である。)

「東高」――東高裁の事件記録(全三冊)

「東地二の二原第二審」――原第二審の事件記録(同記録は原第一審の事件記録の一部と合綴され東地二の二冊としてあるものの、原第一審の事件記録とは別個独立した丁数が付されているので、かかる表示をする。)

「再審」――棄却審の事件記録(全五冊)及び抗告審の事件記録(全二冊)の全体を合わせたもの(再審六冊、七冊は抗告審の事件記録第一冊、第二冊目にそれぞれ該当する。)

「当審」――当裁判所の事件記録(全六冊)

<証拠の表示>

「赤石第一鑑定書」――鑑定人赤石英作成の昭和二七年三月五日付鑑定書(東地二の一―五九丁以下)

「赤石第二鑑定書」――右同人作成の同月一一日付鑑定書(同―三九丁以下)

「赤石第三鑑定書」――右同人作成の同月二〇日付鑑定書(同―六二丁以下)

「赤石第四鑑定書」――右同人作成の昭和二八年七月二七日受付の鑑定書(東地二の二原第二審―一一八丁以下)

「赤石第五鑑定書」――右同人作成の昭和四一年一二月一六日付鑑定書(東地二の六―二五丁以下)

「赤石第一供述」――赤石英の原第一審第三回公判(昭和二七年七月一八日)における証言(東地二の二―三八二丁以下)

「赤石第二供述」――右同人の原第一審第六回公判(同年一一月一七日)における証言(同―五七七丁以下)

「赤石第三供述」――右同人の原第二審第六回公判(昭和二八年七月二五日)における証言(東地二の二原第二審―一〇四丁以下)

「赤石第四供述」――右同人の東地裁第八回公判(昭和四二年一〇月一二日)における証言(東地一の四―一四八丁以下)

「赤石第五供述」――右同人の東高裁尋問期日(昭和四四年四月二三日)における証言(東高二―四九四丁以下)

「赤石第六供述」――右同人の棄却審尋問期日(同年八月二八日)における証言(再審二―五一六丁以下)

「赤石第七供述」――右同人の抗告審尋問期日(昭和五〇年三月五日)における証言(再審六―一九三七丁以下)

「赤石第八供述」――右同人の抗告審尋問期日(同年六月二五日)における証言(同―一九八八丁以下)

「上野第一鑑定書」――鑑定人上野正吉作成の昭和四二年二月三日付鑑定書(東地二の六―四〇丁以下)

「上野第二鑑定書」――右同人作成の昭和四三年一〇月二二日付鑑定書(東高二―二八二丁以下)

「上野第三鑑定書」――右同人作成の昭和四七年一二月一〇日付鑑定書(再審四―一三一五丁以下)

「上野第一供述」――上野正吉の東地裁第九回公判(昭和四二年一〇月二七日)における証言(東地一の四―二二六丁以下)

「上野第二供述」――右同人の東高裁第二回公判(昭和四四年二月二四日)における証言(東高二―二六八丁以下)

「上野第三供述」――右同人の同高裁第三回公判(同年三月三日)における証言(同―三四七丁以下)

「上野第四供述」――右同人の棄却審尋問期日(同年一〇月二五日)における証言(再審三―七八六丁以下)

「上野第五供述」――右同人の抗告審尋問期日(昭和四九年一二月四日)における証言(再審六―一八二六丁以下)

「山沢第一鑑定書」――鑑定人山沢吉平作成の昭和四三年一〇月二五日付鑑定書(東高二―三三二丁以下)

「山沢第二鑑定書」――右同人作成の昭和四九年八月三一日付鑑定書(再審六―一七六六丁以下)

「山沢第一供述」――山沢吉平の東高裁第二回公判(昭和四四年二月二四日)における証言(東高二―二七九丁以下)

「山沢第二供述」――右同人の同高裁第四回公判(同年三月一七日)における証言(同―四二四丁以下)

「山沢第三供述」――右同人の抗告審尋問期日(昭和四九年一二月四日)における証言(再審六―一八八八丁以下)

「山沢第四供述」――右同人の当審尋問期日(昭和五二年六月二九日)における証言(当審五―三二八丁以下)

「古田鑑定書」――鑑定人古田完爾作成の昭和四五年二月八日付鑑定書(東高三―七四七丁以下)

「古田供述」――古田完爾の棄却審尋問期日(昭和四七年一〇月五日)における証言(再審四―一〇四三丁以下)

「村上鑑定書」――鑑定人村上利作成の昭和四三年七月一九日付鑑定書(写)(東高三―七一一丁以下)

「村上供述」――村上利の東高裁尋問期日(昭和四四年四月二四日)における証言(同―六六七丁以下)

「菊池鑑定書」――鑑定人菊池哲作成の昭和四一年五月一七日付鑑定書(東地二の六―八三丁以下)

「三木鑑定書」――鑑定人三木敏行作成の昭和五二年一一月一六日付鑑定書(当審三―一一五丁以下)

「原第一審検証調書(一)」――原第一審が昭和二七年六月一七日青森県東津軽郡高田村大字小舘字櫻苅所在の共同墓地及びその付近につき実施した検証の調書(「検証並証人尋問調書」中の検証部分、東地二の一―一七四丁以下)

「原第一審検証調書(二)」――原第一審が右同日に右同所一六四番地所在の川村すな方及びその付近につき実施した検証の調書(「検証および証人尋問調書」中の検証部分、同―一七八丁以下)

「原第一審検証調書(三)」――原第一審が昭和二七年一〇月二一日に前記共同墓地内から同墓地北側路上の歩行者に対する識別の能否を実験した検証の調書(東地二の二―五五〇丁以下)

「原第二審検証調書」―原第二審が昭和二八年四月二日に実施した検証の調書(東地二の二原第二審―六九丁以下)

「東地裁検証調書」――東地裁が昭和四二年八月二二日に実施した検証の調書(東地一の二―二丁以下)

「東高裁検証調書」――東高裁が昭和四四年二月一七日に実施した検証の調書(東高一―一九五丁以下)

「棄却審検証調書」――棄却審が昭和四六年二月二六日に実施した検証の調書(再審三―九七八丁以下)

「当審検証調書」――当審が昭和五二年三月一九日に実施した検証の調書(当審四―一丁以下)

「員調」――司法警察員に対する供述調書

「検調」――検察官に対する供述調書

「証人調書」――証人尋問調書或いは公判調書中の証人の供述記載部分

「二七・五・九」――例えば昭和二七年五月九日をこのように表示し、供述調書及び報告書などの作成日付、検証実施日などを表わす場合に便宜使用する。

第一本件公訴事実及び原第一審認定事実

一 本件公訴事実は、「被告人は、昭和二七年二月二五日午後七時頃、東津軽郡高田村大字小舘字櫻苅一六四番地寡婦川村すな(明治二八年六月二二日生の満五六歳)方において炬燵にて同女と対談中劣情を催し、同女に対し『やらせろ』と情交を迫りたるも拒否せらるるや、矢庭に手拳を以って、同女の胸部を突き同女が倒るるや之を隣りの寝床にだき抱へ仰向けにしたるも抵抗に遇ひ、寧ろ同女を殺害するに如かずと決意し、両手にて紐様なものにて同女の頸部を絞めて抵抗を抑圧し、同女の陰部に陰莖を没入して性交をとげ、以て強いて同女を姦淫して同女をして窒息死に致らしめたものである。」というにある。

二 前記公訴事実に対して、原第一審が認定し、原第二審が維持した罪となるべき事実は、「被告人は、昭和二七年二月二五日午後七時頃、青森県東津軽郡高田村大字小舘字櫻苅一六四番地寡婦川村すな(明治二八年二月二一日生)方四畳半の間で同女と対談中俄に劣情を催し、同女に対し情交を迫ったが拒否されたため強いて同女を姦淫しようと決意し、いきなり手拳を以て同女の胸部を突き、そのため同女が倒れると同女を隣室六畳間の寝床まで抱きかゝえて仰向けに倒したが、尚抵抗するので同女の頸部を着衣(証第七号・手布製上張り)の襟を両手で持って絞めたところ、力余ってその場で同女を窒息死に致らせ(姦淫自体は結局所期の目的を遂げず)たものである。」というのであって、前記公訴事実と一部異なり姦淫行為自体については末遂であるとし、また絞頸方法についても異なる態様を認定し、さらに殺人の点については殺意に関する犯罪の証明がないと判断していたものである。

第二本件再審公判に至る概要

一 被告人は、昭和二七年三月二日、当時身を寄せていた青森県東津軽郡高田村(現在青森市)大字小舘字櫻苅四五番地所在の長内直吉宅(妻米谷雪枝の実家)において、被害者川村すなに対する強姦・強盗・殺人の容疑で逮捕され、当初否認し、逮捕後三日目に自白したが、昭和二七年三月二三日の起訴当日に再び否認し、否認のまま青森地方裁判所(原第一審)に起訴され、公判中も否認の態度を続け、同裁判所において、同年一二月五日前記第一の二記載の犯罪事実により懲役一〇年の判決の言渡を受け、翌六日同判決に対して仙台高等裁判所(原第二審)に控訴の申立をなしたが、昭和二八年八月二二日控訴棄却の判決をうけ、これに対し上告の申立をしなかったため、同年九月六日確定し、右有罪判決に服することになった。かくて、同日から宮城刑務所に服役し、同年一一月二一日秋田刑務所に移送され、同刑務所で営繕関係の土工夫或いは板金工などの作業に従事し、昭和三三年二月一八日仮出獄により出所した。そして、これより先の昭和三二年五月二一日妻雪枝が病死していたため、身元引受人である実父米谷三四のもとに一時寄宿したのち、昭和三四年に再婚し、現住所に転居し板金工として稼働している。

しかるところ、昭和四二年二月二三日長内芳春(昭和八年三月三日生。同人は被害者川村すなの甥にあたり、実父長内石蔵が同女の実弟にあたる)が被害者川村すな殺害の犯人であるとして東京地方裁判所(東地裁)に強盗殺人・強盗強姦未遂罪で起訴されたことを契機として、同年三月五日日本弁護士連合会人権擁護委員会あてに再審請求についての援助を要請し、同委員会の協力により同年八月二五日青森地方裁判所(棄却審)に再審請求をなすに及んだ。同裁判所においては昭和四八年三月三〇日同請求が棄却されたが、これに対する抗告審の仙台高等裁判所において、昭和五一年一〇月三〇日本件再審開始決定をみるに至った。

二 一方、長内芳春は、昭和四一年三月五日東京地方裁判所に脅迫罪で起訴され、さらに同月一六日窃盗罪で追起訴され、警視庁本所警察署に未決勾留中であったところ、同年四月六日同署勤務の巡査に対し、突如自己が川村すな殺害の真犯人である旨告白したことを契機として、昭和四二年二月二三日東京地裁に、公訴事実を、「長内芳春は、一人暮しの伯母川村すなが小金を蓄えているものと見込み、遊興費欲しさから同女を殺害してでもその金員を強奪しようと決意し、昭和二七年二月二五日午後九時過頃青森県東津軽郡高田村大字小舘字櫻苅一六四番地の同女方に赴き、四畳半の居間で針仕事中の同女の隙を窺い、いきなり背後からマフラーをその頸部に引っかけて俯伏せに押し倒しながら絞めつけ、失神状態に陥った同女を奥六畳の寝室に運び込んだところ同女の裾が乱れているのを見て俄かに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようとしたが射精が早くて未遂に終り、その侭間もなく同女を右頸部絞圧によりその場で窒息死させて殺害し、次いで同屋内を物色し同女所有の現金三〇〇円位を強取したものである」とする。強盗殺人・強盗強姦未遂罪により起訴され、昭和四三年七月二日同裁判所において、捜査官に対する自白は虚偽であるとの理由により無罪判決の言渡をうけた。これに対し検察官から控訴がなされ、東京高等裁判所において同事件の審理中であった昭和四五年五月五日に、神奈川県川崎市内にある勤務先の営業所一室において理由不明の自殺を遂げた。そこで同人に対する事件は、控訴審の実体判断をみることなく、公訴棄却の決定により終局した。

第三本件再審公判の問題点(争点)

一 関係証拠によると、被害者川村すな(以下被害者という)が昭和二七年二月二五日夜何者かによって絞殺されたこと、また被害者の着衣が甚しく乱れ、その腰巻や身体の下腹部に精液が遺留されており姦淫されたような形跡があったことが明らかである。

しかして、右犯行と被告人の結びつきを立証すべき証拠としては、(一)右犯行当日の午後七時ころ被害者方付近道路上を通行中の被告人を見かけたとする目撃者の供述、(二)右遺留精液斑に対する血液型の鑑定及びそれに関する鑑定人の供述、(三)被告人の捜査段階における自白などが存するので、本件においては、右目撃供述の信憑性、遺留精液斑と被告人精液の符合の有無及び被告人自白の信憑性の三点が問題となる。そして、本件の前記特殊性或いは再審請求の審理の経緯に鑑み、遺留精液斑と被告人精液の結びつきについては、その可能性を肯定できるか、との観点からだけではなく、積極的にそれを否定できるか否かの面からも検討を加えるのが妥当であり、また自白の信憑性の判断にあたっても、真犯人であると告白する長内芳春の自白をも考慮することが必要である。

二 なお、弁護人は、右問題点の判断については、再審開始決定の効力に拘束され、新たな証拠(再審開始決定の基礎となった証拠と実質的証拠価値を異にする新証拠の意味と解される)が提出されないかぎり右決定どおりの事実認定をなすべきである旨主張するのであるが、右決定の効力は単に再審公判を開始すべきか否かに関するものにすぎず、再審公判における事実認定についてはなんら拘束力を有するものではなく、右の点は同公判裁判所の自由心証に委ねられるところであるから、右主張は採用できない。

第四目撃者柴田武良らの目撃供述についての検討

一 目撃の概要

柴田武良(大正一二年九月五日生、当時二八年)、その妻フミ(昭和六年七月一八日生、当時二〇年)、武良の実弟公人(昭和一三年三月三一日生、当時一三歳の中学校一年生、同巌(昭和一六年四月一一日生、当時一〇歳の小学校四年生)及び同大八(昭和一八年三月八日生、当時八歳の小学校三年生)らの目撃状況は、柴田武良、フミ、公人、巌らの各員調及び原第一審証人調書、柴田武良、フミの各検調及び大八の当審供述(東地二の四―八四丁・九〇丁・一〇七丁・一一二丁、二の一―一五七丁・一六二丁・一六六丁裏、二の四―九四丁・一〇一丁、当審四―四九丁各以下)などによると、ほぼ次のとおり認められる。

柴田武良ら五名は、本件犯行当日の午後六時すぎころ、全員揃って武良、フミの長男一昭の墓参のため自宅を出て、途中墓地にいたる道筋にある里村商店前で、武良だけが別れて、長男一昭の葬儀のため借用していた木魚を返却すべく鎌田幸一宅に向い、その間フミが同商店において供物の菓子などを購入しながら右鎌田宅から武良が戻ってくるのを待ち受けて、武良が戻ってくるや、再び全員が連れ立って、高田村(現在青森市)大字小舘字櫻苅所在の共同墓地にいたった。そして同墓地において、一昭の墓に線香をあげ、菓子を供え、鉦をたたくなどして参詣した後、菓子を食べながら墓地出入口に向って帰りかけていた午後七時ころ、武良が折りから墓地前道路上を被害者方から里村商店の方に歩行して来る人物を認め、それが誰であるか自分で確認できなかったので、「あれ誰だば」と聞いたら、公人や巌がその問いかけにすぐに呼応して、「あれは雪婿(米谷雪枝の夫である被告人を意味する)だ。」と答えたので、武良やフミもそう了解した。その後武良らは右通行人の後を追うようにして墓地を出て帰途についた。

二 目撃現場及びその附近の地理的状況並びに天象・気象状況

1 地理的状況

司法警察員作成の二七・二・二六付実況見分調書添付の現場附近見取図(第二図)、強姦強盗殺人被疑事件現場写真記録(同写真は本件犯行の翌日である昭和二七年二月二六日に撮影されたものである)(東地二の二―三九八丁・四〇一丁各以下)、原第一審検証調書(一)(二)(三)及び原第二審検証調書などによると、

(一) 柴田武良らがいた共同墓地は、本件犯行現場である被害者方の西方約一六乃至一七間(約三〇メートル)の位置に杉林を隔てて隣接し、積雪に覆われ平担な地形をしており、同墓地北側(正面)の土堤に沿って、東方の高田村大字野沢部落(被害者方)方面から西方の同村大字小舘部落(里村商店)方面に通じる幅員約三間(約五・四メートル)のやや下り坂となった村道(以下墓地前道路という)が走っていて、同道路の被害者方前附近から墓地入口附近に至るまで約二四間(約四三メートル)の距離にあり、同墓地附近の人家としては、被害者方及び同家の北方一四間(約二五メートル)離れたところに一軒よりなく、墓地自体も東側・南側及び西側の三方は杉木立及びアカシヤの疎林に囲繞されているために人家の照明による影響もなく、なお道路を狭んだ墓地北側の土地も積雪に覆われた平坦地をなしている状況であった。

(二) 共同墓地北東隅及びさらにその東方被害者方前附近路上には、それぞれ電柱が建てられていた(北東隅にある電柱は別紙図面点の、また被害者方附近にある電柱は同図面点の電柱に相当する)が、当時これらに外灯が備付けられていなかった。

(三) 墓地内から墓地前道路を通行する人物を見た場合、歩行者が墓地入口付近(別紙図面③点付近)にさしかかった際にはその全身をみることができるが、その東側から墓地東端付近までの間(同図面③点から①点付近まで)は、土手に遮ぎられて下半身がみえず、とくに東端付近では墓碑・塔婆によりさらに見通しが妨げられる状況であった(なお、右見通し状況に関し、「通行人は見上げるような感じであった」趣旨の、柴田武良及び同大八の各供述((東地二の一―一六一丁裏、当審五―二六一丁、同四―七三丁裏))は、前掲現場写真記録及び原第一、二審各検証調書に対比してとうてい措信できない)。

以上のとおり認められる。

2 天象・気象状況

青森測候所長柳谷喜太郎作成の二七・一〇・一付「日没時刻回答」と題する書面、裁判所書記官作成の二八・四・二付電話聴取書及び青森気象台長守田康太郎作成の四二・四・二八付鑑定書(写)(東地二の二―五〇六丁、東地二の二原第二審―四四丁、再審一―二五丁各以下)などによると、本件犯行当日における青森市付近の天象・気象は、

(一) 日没時刻が午後五時二一分であった(但し、前掲青森気象台長守田康太郎作成の四二・四・二八付鑑定書(写)においては午後五時二二分としている)。

(二) 月令が〇・七で日中晴れ間もあったが、夕刻前から曇り、午後六時以降は薄曇りであった。

(三) 小舘部落櫻苅近辺では、太陽がおよそ午後四時三〇分から四〇分の間には山岳の稜線下に入り、午後六時五〇分ころには地平線下に完全に沈む(高度マイナス一七・五度)ため、同時刻ころにはすでに天文薄明も終った状態となり、戸外の視界は雪あかりもほとんどない状況であった。

以上のとおり認められる。

三 目撃時刻

1 柴田武良らの目撃時刻は、おおよそ午後六時五〇分ころから午後七時一〇分ころまでの間と認められる(ちなみに、原第二審は午後六時五〇分ころと認定している)。すなわち、

(一) 柴田武良の自宅出発時刻について

柴田武良の員調、フミの検調、公人の原第一審証人調書、裁判官作成の電話聴取書及び検察事務官作成の四二・二・一五付「東奥日報」写真撮影報告書(東地二の四―八五丁・一〇一丁、二の一―一六七丁、東地二の二原第二審―八二丁、東地二の六―二七一丁裏各以下)などによると、武良ら家族は、午後五時一五分から同三〇分までのラジオ放送番組「さくらんぼ大将」を聞きながら夕食を終わり、午後六時からのラジオニュースの途中の六時一〇分ころか、遅くとも同番組「向う三軒両隣り」の始った六時一五分ころに自宅を出たものと認められる。

(二) 共同墓地までの所要時間について

(1) 原第二審検証調書及び裁判所書記官作成の五〇・一二・一二付歩行実験報告書(再審七―二一四六丁以下)によると、積雪のない状況下においては、柴田武良宅から里村商店を経由して共同墓地に至るまでの通算歩行距離が約四八五乃至五一八メートルであって、その間の成人の歩行所要時間は七分乃至八分(原第二審検証では七分とし、抗告審における歩行実験では、ゆっくり歩行した状態で八分としている。)であること、及び里村商店から鎌田幸一宅までの往復距離は約一七二メートルで、その間の歩行所要時間は約三分であることが、それぞれ認められる。

(2) そこで、当時柴田武良らが自宅を出て共同墓地に到着するまでに実際に要した時間を考える。

当日は雪道であるうえ、子供連れのために、積雪のない時期における成人の一人歩きの場合に比し、相当多くの時間を要したことは明らかである(柴田武良の原第二審検証時における説明、東地二の二原第二審―七一丁裏)。しかして、柴田公人は(当時自宅から墓地まで歩いて一五分か二〇分位かかる。」旨供述する(同人の原第一審証人調書・東地二の一―一六七丁)ところ、同供述は、右墓参の際の道筋が被害者宅先にある野沢小学校にいたる同人ら兄弟の平素の通学路であった(柴田公人、巌の当審における各供述)ことに徴し、その体験に基づくかなり正確なものであるといえるうえ、右(1)に認定した成人一人歩きの通常所要時間のおおよそ二倍乃至二倍半程度の範囲を指摘するにとどまるものであることからすると、十分に首肯できるものである。そうとすれば、柴田武良宅から墓地まで直行した場合の実際所要時間は一五分乃至二〇分程度であったと推認して差支えない。

次に、柴田武良が里村商店前から鎌田宅を往復するのに要した時間については、同人一人だけの行動であることと、鎌田宅では特別時間を要した事情が窺われないこと(柴田武良及び鎌田とめの各員調・東地二の四―八六丁・一二四丁各以下)によると、おおよそ五分内外であると推認できる。

なお、柴田フミは、「自宅から里村商店まで一五分位、同商店から墓地まで一〇分位、同商店では一〇分位待った。」旨を供述する(同人の原第一審証人調書・東地二の一―一六三丁以下)が、前掲歩行実験報告書から明らかなように、里村商店から墓地までは距離にしてわずか九三メートルで、その間の通常時における歩行所要時間が二分にすぎないところを十分位とし、また、同商店で武良を待ち受けていた時間についても、前述したように鎌田宅への往復所要時間が五分程度にすぎないところを十分位とするものであって、右供述は措信できない。

(3) 右認定したところによると、柴田武良らが自宅を出てから里村商店を経由し共同墓地に至るまでの所要時間はおおよそ二〇分乃至二五分程度で、墓地到着時刻にすると、午後六時三〇分乃至六時四〇分の間となる。

(三) 共同墓地到着後目撃するまでの墓地内経過時間について

(1) この点に直接言及するものとしては、まず、柴田武良が「四〇分いた。」旨供述していた(原第一審証人調書・東地二の一―一六一丁裏)が、後に「寒い時であった。」との理由を付加して「長くおっても三〇分まではいなかった。」旨供述を変更している(同人の東地裁証人調書・東地一の二―六二丁裏)ところ、当日午後六時現在の青森市内の気温が氷点下三・三度であって(青森気象台長守田康太郎作成の四二・四・二八付鑑定書(写)・再審一―二五丁以下)、かかる冷込みの厳しい時に、八歳と一〇歳の弟達を伴って四〇分もの時間墓地内にいたとするのは疑問であるから、右変更後の供述は首肯できるものである。

(2) 次に、柴田フミは、裁判官の「墓地には何分位いたか。」との質問に対し、「墓所前で一把の線香に火をつけて立て、持っていた供物をし、それから一〇分位も鉦をたたいて、鉦をやめて五分位もその場に居り、それから供物の菓子を下げて皆に分けて食べている途中に通りかかったのでありまして、」と具体的に供述しており(同人の原第一審証人調書・東地二の一―一六三丁裏)、これは、その内容に徴し、共同墓地に到着後目撃するまでの経過時間全体について供述しているものではないにしても、その主なる部分を述べたものと窺われるものであり、さらに、供物をするための準備時間及び菓子を食べながら帰宅準備に要する時間などを考慮すると、帰りはじめるまでには、全体で二〇分乃至三〇分程度を費やしているものと推察でき、これは武良の前記変更後の供述と矛盾しないことはもとより、他にこれに反する証拠もない。

(四) 以上認定したところによると、柴田武良らが通行人を目撃した時刻は、おおよそ午後六時五〇分ころから午後七時一〇分ころまでの時間帯にあるとみて差支えない。

この点は、目撃時刻にふれる柴田公人の「菓子を喰べながら五人で家に帰ったのは午後七時過ぎであったから、(目撃時刻は)午後七時前頃と思う。」旨(同人の員調・東地二の四―一〇九丁)、及び柴田武良の「午後七時前後のことと思う。」旨(同人の原第一審証人調書・東地二の一―一五八丁)の各供述に合致し、また、柴田フミが、「家に帰って食べた後片付をしてしまったらラジオの時報が八時を打った。食べた後片付に三〇分位要したと思う。」として、帰宅時刻をおおよそ午後七時三〇分ころと推測させる趣旨の供述をしている(同人の原第一審証人調書・東地二の一―一六四丁)ところ、同供述も、共同墓地から柴田武良宅までの歩行所要時間がおおよそ一五分乃至二〇分程度である(前記(二)の(2)参照)ことからすると、右認定した目撃時刻と著しい不一致をみないところで、特に目撃時刻が右認定したところより早まることはない。なお、右フミの捜査官に対する「目撃時刻は午後七時半過ぎである。」趣旨の供述(同人の検調・東地二の四―一〇三丁)は、右各認定に対比してにわかに措信できない。

2 目撃時点における日没後経過時刻

本件犯行当日の日没時刻は、午後五時二一分である(前記二2の(一)参照)から、右認定の目撃時刻は、日没後八九分乃至一〇九分経過時に相当する。

四 犯行時刻(被害者の食後死亡までの経過時間)

本件目撃時刻以前に犯行がなされていたことが認められてはじめて、目撃供述が意味をもつものであるから、被害者の死亡時刻を検討することとする。

1 被害者の夕食終了時刻について

里村タカ、間山哲夫及び長内秀雄の原第一審各証人調書(東地二の一―二三七丁・三三八丁・三四二丁各以下)並びに里村タカの員調及び検調(東地二の三―五〇丁・六〇丁各以下)、長内昭雄及び長内義昭(二七・三・二付)の各員調(東地二の三―二四丁、二の五―一四一丁各以下)、裁判所書記官作成の五〇・一二・一二付歩行実験報告書(再審七―二一四六丁)を総合すると、

(一) 被害者は当日午後四時半ころから午後五時ころまでの間に里村商店で豆腐と納豆を買ってすぐ帰宅していたこと(被害者宅と同商店間は距離にして約一四〇メートルで、積雪のない状況下では歩行所要時間約三分)。

(二) 被害者の甥長内昭雄(昭和一四年五月一〇日生)は午後五時ころ夕食を終えて被害者宅へタオルを取りに行って、被害者にタオルを探してもらってすぐ自宅に戻ったこと。なお、被害者宅に着いてから帰るまで、探すのに手間取ったとか、その他特段時間を要したことはなんら窺われないこと及び後記(四)を考え併わせると、「長内昭雄が自宅についたのは、午後五時三〇分ころであった。」との供述(同人の前掲員調・東地二の三―二六丁)は、にわかに採用できず、もっと早い時刻に自宅についている可能性がある。

(三) 右時刻には被害者は、夕食の支度中であったこと。

(四) 右昭雄の自宅(長内石蔵宅)と被害者宅との距離は約三三八メートルで、積雪のない状況下で徒歩による所要時間は約六分にすぎないこと。

以上の各事実が認められるのであって、これを併せ考慮すると、被害者は、午後五時半ころから午後六時ころまでには夕食を終えていたものと推認してよいであろう。

2 食事後死亡までの経過時間について

古田鑑定書及び古田供述によれば、赤石第一鑑定書の解剖検査の記載に基づいて、被害者の年令、歯の状況、胃の内容物の種類、状態、量及び食物の十二指腸への移行状況並びに胆汁の濃度、量等の検討を経て、死亡時における食後経過時間は、「二、三時間乃至五、六時間と推定できるが、どちらかといえば二、三時間前後位を経過していると推定するのが妥当と考えられる。」としながらも、「食後一時間と考えても矛盾はない。」とするものであって、首肯できる結論と考える(再審一二七三丁~一二九七丁、とくに一二八二丁裏・一二九〇丁)。

この点につき、上野第一鑑定書は、極めて概略的で、個人別には多くの例外のあることを認めたうえでの経験的規準に則して、赤石第一鑑定の解剖検査から、右経過時間は「大体食後二、三時間経過とみられるが、場合によりこれより長時間ということもあり得る。」とし、さらに同鑑定人は、右二、三時間というのは「一時間半乃至三時間半ということになるかもしれない。」旨供述する(上野第一供述・東地一の四―二三五丁裏)のであって、同鑑定人の結論は、必ずしも右古田鑑定人のそれと矛盾するものとは解されない(なお上野鑑定人は、第三鑑定書において、自己の右鑑定所見を変更するものではないが、古田鑑定人の鑑定理由を批判するところ、これについては納得しうる合理的理由を見い出し難い)。

次に、赤石鑑定人は、とくに食後死亡経過時間を鑑定することはなかったが、後に、これにつき、「死亡推定時刻は、食物の性質、本人の消化機能、年令や死体の保存状況に左右されるもので、法医学的に判断の困難な事項である。」とし、「大雑把にみて食後二、三時間から五、六時間と推定する。」旨供述している(赤石第一、第三供述・東地二の二―五七八丁・一〇八丁~一一〇丁)のであるが、同供述も、食後二、三時間以降との点について右古田、上野両鑑定人と同様であるところ、右両鑑定人と異なって特にこれが早期に遡る可能性のないことを積極的に否定する趣旨の説明が存しないところからすれば、赤石鑑定人も、右両鑑定と同じように、二時間がさらに短縮される可能性のあることを否定するものとまでは解し難い。

3 してみると、被害者の死亡推定時刻は午後六時三〇分ころ以降と推認して差支えないわけであり、本件目撃時刻との間に格別矛盾を生じないものと判断できる(なお、長内自白の犯行時刻である午後一〇時ころとも食い違いはない)。

五 目撃者らの位置関係

1 原第一審検証時(二七・六・一七実施)における柴田武良、フミ、公人及び巌の、原第二審検証時における武良の、東高裁検証時における武良及び公人の各指示説明並びに武良、フミ、公人、巌及び大八の各員調、武良及びフミの各検調、武良及び巌の原第一審各証人調書、公人の原第一審及び東地裁各証人調書(東地二の一―一五六丁裏・一六二丁・一六五丁裏・一六八丁裏、東地二の二原第二審―七一丁、東高一―一九六丁、東地二の四―八四丁・九〇丁・一〇七丁・一一二丁・一一七丁・九四丁・一〇二丁、一の二―一〇六丁各以下)などを総合すると、通行人を目撃した際の目撃者らの所在地点は、墓地出入口に向い先頭にいたのは巌、或いは大八のいずれかで(本件証拠上どちらが先頭であったかは確定し難い)、次いで公人、フミ、最後尾が武良の順であって、その位置関係は、ほぼ別紙図面のとおりであり、その際の歩行者の所在地点は、墓地北東隅道路上付近、すなわち同図面①点付近であることが認められる。

2 右目撃地点につき、柴田武良、巌及び公人らは、捜査官に対し、「墓地出入口付近まで来たとき」歩行者を目撃した趣旨をいずれも供述しており(武良、公人及び巌の各員調・東地二の四―八六丁裏・一〇九丁・一一三丁裏)、これによると、同人らは、墓地前道路にかなり接近した位置から目撃したことを窺わせるものである。しかし、右各供述における「墓地の出入口付近」との趣旨は、位置の特定としては極めて不明確であるし、武良がその立会った各検証時(但し、当審検証時は除く)に一貫して、自己の位置をほぼ別紙図面点と指示説明しており、とくに公人は東高裁検証時において、武良の指示した右点からの距離関係を考慮して自らの位置を特定(同図面点)したうえ、自己及び巌、大八との相互の位置関係は「お互いの足がぶつからない程度の間隔である」との具体的事由を付加して、巌(同図面点)、大八(同図面点)の位置をも特定したものであって、これらによると、武良、巌及び公人らの述べる「出入口付近」というのも、右1認定の各地点を指称したにすぎないものとみるほかない。

3 柴田大八は、当審の現場検証の際にはじめて、当初歩行者を認めた時の自己の位置を指示しており(当審検証調書表示点)、かつその根拠もかなり具体的であり(すなわち、柴田十兵衛の墓石からの距離から推し測るとしている)、これによると、その位置は墓地入口地点(当審検証調書表示③点)から約九・四メートルの地点であって、右1に認定した同人の位置(別紙図面点或いは点、両点は墓地入口地点からそれぞれ約一一メートル或いは一二メートルの距離)と若干相違するところであるが、事件後二〇数年経ってから、広範囲の墓地の中でかつ墓石一基を基準として、当時の地点を特定するものである以上、幾分の「ずれ」を生ずるであろうことは想像に難くないし、さらに後記七1の(五)において説示するように、当審検証の際には、東高裁検証時の位置関係を正確に再現できなかったこともあるから、大八の右指示の事実は、未だ前記1認定の妨げとはならない。

六 目撃者らの識別内容等

柴田武良ら目撃者は、いずれも墓地前道路を里村商店の方へ通行した人物は被告人であるというのであるが、果して全員が自己の判断でそのように識別したかどうか、また、どのような事由からそう判断したかは、目撃供述の信憑性を検討するうえで極めて重要である。

1 柴田武良ら五名のうち、自己の判断で通行人を被告人と識別したものは柴田公人、巌及び大八の三名であり、かつその識別の手がかりは、八寸(半纒)様の着衣を頭から被った通行人の姿、恰好に止まるにすぎない。すなわち、

(一) 柴田武良について

同人の員調(東地二の四―八六丁以下)によると、当初同人は捜査官に対して、「川村すなの家の方から人が来たので、私は弟達に『あれ誰れだ』と問うたら、岩男(巌と同一)が『雪枝の婿だ(被告人の部落内での呼称で、雪婿とも呼ばれていた)』と言ったら、弟達皆なが『其んだ、其んだ』と言ってあったので、私も良く見たら米谷四郎でありました。米谷は頭を下に手を前に組んで、普通の足取りで里村の店の方に歩いて行きました。」と供述していたにすぎず、具体的な識別事由については敷衍されず、同人の検調(東地二の四―九七丁以下)において「……遠方から見たのですから通行人の顔は見ません。又どんな服装であったか記憶ありません。米谷の歩き方は知りませんから、どういう風に歩くかよく判りませんが、私達の歩く方から見ると急いでいた様に思います。私が弟達から言われて米谷であると信じた理由は、恰好が米谷にそっくりだ、腕組をしているあたりはよく似ていると思ったのであります。」と具体的に供述するに至ったが、その後の原第一審証人調書(東地二の一―一五七丁以下)によれば、検察官から「墓場前を通り過ぎた者が米谷であるとわかった動機」について質問されたのに対して、「……その男が誰かはっきりわからぬから、私は家族の者に向って『あれ誰だば』ときいたら、弟の公人か巌のうちの誰かが『あれは雪の婿だ』と云ったのです。それで米谷ということがわかったのです。」と供述する(同記録―一五九丁以下)にとどまり、原第二審検証調書によれば、同検証時の指示説明にあたり、特に「私の眼は遠視、乱視であるが、一緒に墓参した弟柴田公人等の眼は健康で、その視力は一・二以上であった。」旨弟達の識別に依拠したような供述を付加しており(東地二の二原第二審―七一丁裏)、さらに当審においても、被告人をそれほど面識していないことを推認させるような、「米谷の顔をみたのは一、二回か、そうたびたび会っていない。」趣旨の供述をしている(当審五―二三五丁・二六三丁。なお同人の検調・東地二の四―九四丁裏も同趣旨)ものである。

右各供述によると、柴田武良自身は、歩行者を現認したとき、自己の判断で、被告人であると識別したのかは極めて疑問であって、むしろ弟公人らの判断に雷同するにすぎないものであり、なお、仮に自ら識別し得たとしても、識別の根拠としては、「歩行者が腕組みしていた恰好」以上のものでないことは明らかである。

(二) 柴田フミについて

同女の員調、検調及び原第一審証人調書(東地二の四―九〇丁・一〇一丁、二の一―一六二丁各以下)などからすると、本件目撃当時、同女は被告人と面識がなく、義弟らの「雪枝の婿」との指摘をもって、墓地前道路を通行中の人物が被告人であると思ったにすぎないところであって、同女自身の判断にもとづき識別したものではないこと明らかである。

もっとも、同女の前掲原第一審証人調書のうちには「私の夫武良が弟等に対し『あの人誰か』と聞いたところ、弟等は『あれ雪婿だ』と答えたので、私もその人の横顔を見て、この人が雪枝の婿かと思いながら見たのです。そのときの人がこの人(被告人の意味)であったと思います。」と記載され、当時目撃した歩行者が被告人と同一人物であった旨証言をしている(東地二の一―一六二丁裏)。しかしながら、同女の東地裁証人調書によると、前記原第一審における証人尋問の際に「同一人物である」旨証言したことについて、「警察へ引っぱられれば犯人じゃないですかとそう思います。それでその時そうはっきり、そう言ったんでないでしょうかと思います。」、「家族の中で言いあったり連れていかれたりすればやはりあの人(被告人の意)だと、自分では思ったんじゃないですか。」と説明し(東地一の二―八九丁裏・九三丁)、また横顔を見たということについても「私思うなら、横顔というのが在でいうと、横の姿を見かければ、早いところ、横顔とか言う。」などと供述している(同記録―八〇丁・九一丁裏)ところに照らすと、原第一審の証人尋問における右証言はとうてい措信できない。

(三) 柴田公人及び巌について

右両名は捜査官に対しては、墓地内から墓地前道路を通行中の歩行者を目撃した際の状況として、「通行人は半纒かジャンパーの様なものを着ていた。」とか、「着ていた物を頭から被っていた。」などと述べているものの、その時の人物が被告人であると識別したことについては、いずれも「被告人である。」旨簡単な供述をするにとどまり、識別した事由については具体的に明らかにしていない(両名の各員調・東地二の四―一〇七丁・一一二丁各以下)。しかし、その後、柴田公人は、原第一審における証人尋問の際に、「私は一昭の墓地前のところで電柱の傍(原第一審検証調書(一)表示基点(ロ)点付近)を里村の店の方へ歩いてくる米谷の姿を見ました。同人は半纒かオーバーかを頭から被っている様に見えました。顔はよく見えなかったが、体、恰好を見て米谷とわかりました。」と述べ(東地二の一―一六六丁以下)、以後、東地裁、東高裁及び当審における各証人尋問においても、「通行人はちゃんちゃんことかはっしんとか言っている物を頭から被っていたが、姿、恰好から被告人であると判った。」旨供述しており(東地一の二―一〇六丁、東高一―二〇〇丁、当審六―六三八丁各以下)、また、柴田巌も、原第一審における証人尋問において、「どうして歩行者が米谷四郎と思ったか。」との問に対して、「普段の恰好を見て知っているのでわかったのであります。」、「顔は少ししか見えぬので、米谷とは分らなかったが、姿は普段米谷の恰好を見て知っているので顔の全体、恰好で米谷であるとわかったのです。」と述べ(東地二の一―一六九丁)、さらに東地裁及び東高裁の各証人尋問においても、「通行人はちゃんちゃんことか言っている物を頭から被っていたが、身体全体で被告人と判った。」旨供述している(東地一の二―一三〇丁・一四三丁、東高三―七三六丁)のであって、右公人、巌両名とも、識別事由についてはほぼ一致し、通行人の顔を確認したうえでその者を被告人であると判断したわけでなく、単に、八寸(半纒)様の着衣を頭から被った歩行者の姿、恰好から判断したにとどまっている。

(四) 柴田大八について

同人は、墓地内から通行中の被告人を目撃したことを捜査官に供述してはいる(同人の員調・東地二の四―一一七丁以下)が、識別事由について特に触れた部分はなく、当審の証人尋問においてはじめて、検察官の質問に対し、「当審検証調書表示の地点付近にいたとき、同調書表示点(別紙図面①点付近)と点(同図面③点付近)との中間より少し東寄り付近に、はっしんとか綿入れとか言っている物を頭から被った、通行人を発見し、横顔をみてすぐ被告人であることが判った。」趣旨の供述をする(当審四―六五丁以下)。しかしながら、右(三)認定のように、同人の付近にいた公人や巌らが、姿、恰好で判断しているにとどまること、及び後記七1の(五)に説示するように当審の検証結果においては、右供述の地点より、頭からはっしんなどを被っている通行人の顔を確認することは極めて困難であったことからすれば、顔の一部を瞥見したにせよ、むしろ、同人が、検察官から、「あなたはすぐ見てだれであるかわかったようですが、何か特徴でもあったのですか。」と質問されたのに対し、「ちょっとねこ背のような感じでした。……うつむき加減にして歩いていました。」旨答えている(同記録―一九丁)ように、同人もまた八寸様の着衣を頭から被った通行人の姿、恰好から識別したにすぎないものと認められるのである。

2 目撃識別後の状況について

柴田武良ら目撃者は、目撃時帰宅すべく墓地出入口に向って歩いており、通行人も足早やに里村商店の方に歩いて行くところから、結局、柴田武良らは墓地を出てから後、自然に右人物に追随する形で里村商店の方に歩いて行ったものである(右1掲記の柴田武良ら五名の各員調、検調及び証人調書並びに公人、巌及び大八の当審供述)。

しかしながら、柴田武良らが通行人を当初認めてから後、特にその動静に再度注意を払ったことを肯定すべき証拠はなく、むしろ、フミが、「私達は米谷の後を追ったわけでなく、供物の菓子を喰べながらぶらぶら帰宅した。」(同人の検調・東地二の四―一〇二丁裏)とか、「道の所に出たとき、前の方に行くのを何も気をつけない。」(同人の東地裁証人調書・東地一の二―八一丁)と、また公人が、「急に急ぎ足で私達の前を通って里村の方へ行ったが、その後はどっちの方へ行ったかわからない。」(同人の員調・東地二の四―一〇九丁)とし、その男の後をずっとついて帰ったか、との質問に対して「さっぱり思い出せない。」(同人の東地裁証人調書・東地一の二―一一一丁)とか、米谷は何処まで歩いて行ったか、との質問に対しても「記憶にない。このようになるとは思いませんでした。……気をつけていなかった。」(同人の東高裁証人調書・東高一―二二四丁)と、さらに巌も、「まあ後もつけていませんですから、そのままいなくなったという程度で、……どの辺まで見たか思い出せない。」(同人の東地裁証人調書・東地一の二―一二七丁裏以下)とか、「道に出てから、その人はどの位前を歩いていたかわからない。……往来に出てから、見た人は途中でどこかに行ってしまった。」(同人の東高裁証人調書・東高三―七三五丁裏・七三九丁)などと、それぞれ供述していることからすれば、目撃者らは、墓地出入口に向って帰りかけた際に通行人を目撃し、これを被告人であると識別したものの、その後は特別に通行人の動静には関心を懐くことなく、漠然とその者の後から歩いて行ったにすぎないものと推測することができる。

なお、柴田大八は当審において、通行人の後姿を、里村商店前を左折してからさらに五〇メートル先の「灌漑用のせき」付近まで見ていた旨供述する(当審四―七〇丁以下)のであるが、右各供述に照らすと、当時八歳の一番年少者であり、かつ通行人に特段関心を懐いた事情が窺われないのに、右各目撃者ら以上に通行人に注意を払っていたとは、とうてい考えられないところであって、右供述部分は措信できず、むしろ、同人も、それ以後は見失ったことの理由として、「あまり気にとめていなかった。」旨自ら説明するとおり、無関心の状態で通行人に追随していたものと認められるのである。

ところで、右の点に関連して、巌が当審において、特にあらたに、「帰りがけで、ほとんど道路に出る寸前に、自分が通行人に『お晩です』と声をかけた。」趣旨の供述をし(当審五―二九四丁裏)、大八も同じく、「墓地入口付近で通行人とすれ違ったような感じであった。私の前を歩いていた巌が『お晩です』と言葉をかけた。」旨、右供述を補強する(当審四―六八丁)。

しかしながら、仮に、巌が通行人に声を掛けたことが事実であるとしても、これによって、特に、通行人の顔を見て当初の識別判断を確かめたとの趣旨を意味するものとは理解することができない(この点は前記1の(三)において説示したように、同人が一貫して姿、恰好によって識別した旨供述していることからも明らかである)。このことは、大八においても同様で、前記五の3に説示したとおり同人は当審検証調書表示点において目撃し、被告人であると判ったというにすぎず、その後墓地出入口に近づいたとき、巌が「お晩です」と声をかけたというだけであって、それにより自己において顔を確認した等というものではないのである。

さらに、巌はこれまで捜査官に対して一回、証人として三回にわたって目撃状況を詳細に供述しているのに、通行人に声をかけた趣旨の供述が全くないのは極めて不自然である。この点について、当審ではじめて供述するに至った理由や心境として、「父から墓地で会ったということはだれにも言うなと言われてきたのですが、このように再三呼ばれ、これだけが原因ではありませんが、職業をかえなければならない状態になり、初めて父から言ってはいけないと言われたことがわかりました。」、「名古屋に行っても呼ばれ、青森に帰って来てからも三回くらい呼ばれ、前の会社は気まずくなってやめました。それでこのようなことはこれで最後にしてほしいし、知っていることを述べたのです。」と供述するのであるが、同人の当審供述は、「声をかけた。」との点以外は、これまでの供述内容以上に付加されるところはないのであって、右の点だけをなぜ秘しておかなければならなかったか、右説明によってはとうてい理解し難いところである。また、大八においても、事件後の昭和二七年六月一日における捜査官の取調べの際にはかかる点を供述することがなかったし、当審供述中には、前記のとおり、通行人の後姿に注意を払っていた旨の、にわかに措信できない供述部分も存するところであって、これらの点及び声をかけて挨拶することは日常生活上の習慣的な事柄にすぎない点から推測すれば、多分に記憶の混同が窺われる。したがって、右両名の通行人に声を掛けたとする供述部分はたやすく措信できないところである。

七 識別能否に関する検証結果

1 目撃者らがいた共同墓地内から墓地前道路を通行する人物に対する識別の能否については、原第一審、第二審、東高裁、棄却審及び当審などにおいて実験的に検証が行なわれているものであるが、それらの検証の概要及びこれに対する評価は次のとおりである。

(一) 原第一審における検証(二七・一〇・二一実施)について

原第一審検証調書(三)及び裁判所書記官作成の二七・一〇・一四付「電話回答報告」と題する書面(東地二の二―五一〇丁)によると、次のとおり認定できる。

(1) 検証時の天象・気象及び四界の概況は、(イ)日没時刻が午後四時四九分、(ロ)検証時雲はなく、月が出ていない、午後五時三〇分の時点においては星影が僅かに見え、午後六時の時点においては星影が無数に輝いている、(ハ)四界に積雪がない。

(2) 検証の方法は、共同墓地内の原第一審検証調書(一)表示(ニ)点(同点は柴田フミが指示した目撃位置で、おおよそ別紙図面点と点の間に該る)を識別位置と定めたうえ、墓地北東隅付近路上にある電柱の外灯(別紙図面点電柱の外灯に相当する。)を消灯した状態で、被識別者として選んだ黒っぽい服装及び白っぽい服装の村民二名を、右墓地北東隅附近路上(原第一審検証調書(一)表示(ロ)点で、ほぼ別紙図面①点に該る。識別位置(ニ)点から(ロ)点までは八間二尺「約一五メートル」)に佇立させ、或いは同点から墓地前道路上を墓地入口附近方向に歩行させながら、午後五時三〇分から午後六時(日没後四一分から七一分経過)までの間三回にわたり識別を試みている。

(3) 識別能否の結果については、本件目撃当時における日没後経過時間(八九分乃至一〇九分)に相当するところまで行なわれていないので、それに最も近い午後六時(日没後七一分経過)の実験事例についてみると、

(イ) 右墓地北東隅附近路上((ロ)点)に佇立させた場合では、人の姿は全く判らず声をかけて確めたうえで凝視して白っぽい服装をした被識別者の人影を辛じて判定できたが、黒っぽい服装をした者については全然判らない。勿論顔の識別はできない。

(ロ) 道路を歩行させた場合では、足音により位置を定めて注意してみることによって、墓地の土堤が途切れるあたりで歩行している被識別者の人影をどうやら視認できたものにすぎない。もっとも、さほど注意を払わなければ見えない程度ではなく、おぼろげながら人影を判別できるが顔の識別まではできない。

としている。

(4) 右検証の結果によれば、検証当日の日没後七一分経過時でも、別紙図面点附近からの識別は極めて困難であることは明らかである。もっとも、当日は積雪がないのであるから、同検証調書に記載があるように「積雪の有無等」によって影響があることは想像に難くないので、これを考慮すれば、同検証結果のみで識別の難易をたやすく断定することは当を得ないところである。

(二) 原第二審における検証(二八・四・二実施)について

原第二審検証調書及び裁判所書記官作成の二八・四・二付電話聴取書(東地二の二原第二審―四四丁)によると、次のとおり認定できる。

(1) 検証時の天象・気象及び四界の概況は、(イ)日没時刻が午後六時三分で、月の出は午後九時四分、(ロ)検証時全天薄雲に覆われ、星影は見えず月の出なし、(ハ)共同墓地一帯に四、五寸乃至一尺程度の残雪があり、墓地前道路に面し、その北側にある畑も雪に覆われ、なお、右道路及び附近の屋根には積雪がない。

(2) 検証の方法は、共同墓地内の原第二審検証調書表示(ハ)'点(同地点は柴田武良が検証時に目撃位置として指示したもので、別紙図面点にほぼ該当する)を識別位置として定め、共同墓地北東隅の路上附近にある前記(一)の(2)に説示した電柱の外灯を消灯した状態で、被識別者四名を右電柱附近の道路上(原第二審検証調書表示(ロ)点、別紙図面①点にほぼ該当)から墓地入口附近路上(同検証調書表示(ホ)点で、同図面③点にほぼ該当。なお、右識別位置(ハ)'点から歩行始点(ロ)点までの距離は八間二尺「約一五メートル」)までの間を歩行させながら識別を試みている。

(3) 識別の結果については、原第一審検証同様本件目撃当時における日没経過時間(八九分乃至一〇九分)に相当するところまでは実施されておらず(ちなみに、同検証当日における日没後八九分経過時刻は午後七時三二分である)、これに近接したところをみると、

(イ) 午後六時五二分(日没後四九分経過時)の実験事例では、識別者二名のうち一名が被識別者四名中一名(自己の熟知している者)を、他の識別者一名は被識別者二名(いずれも自己の熟知しているもの)を識別したが、いずれも被識別者の顔形、眼鏡の有無については判別できなかった。

(ロ) 午後七時(日没後五七分経過時)の実験事例では、被識別者の帽子の有無は識別できなかったが、姿により被識別者四名のうち一名(自己の熟知している者)のみを識別した。

としている。

(4) 右検証結果によると、本件目撃当時の日没経過時刻よりも三二分早い時刻において、すでに識別がかなり困難であることが推認されるのであるから、少くとも本件目撃時においては識別が容易であったことの証左とはなし難い。

(三) 東高裁における検証(四四・二・一七実施)について

東高裁検証調書及び「証拠申請についての補充申立書」と題する書面添付の電信回答書(写)(東高一―一七〇丁)によると、次のとおり認定できる。

(1) 検証時の天象・気象及び四界の概況は、(イ)日没時刻が午後五時三分、(ロ)月令は〇・四、(ハ)午後六時二八分の時点において全天三分の一位薄雲であるが、空は澄んで星が輝く、(ニ)共同墓地及び附近の人家、その屋根、墓地前道路などは一面積雪で覆われ、特に同道路は墓地より一段と低くなっているため北からの雪の吹きだまりとなって約一メートル強の積雪があり、なお、墓地入口附近は積雪が少なく、他の部分と比較して墓地前道路に対する見通しは幾分よい。

(2) 検証の方法は、共同墓地内における東高裁検証調書表示点(柴田武良が自己の目撃位置として指示した地点で、別紙図面点に該当)及び点(柴田武良及び同公人両名が柴田大八の目撃位置として指示した地点で、右点より約四・二五メートル墓地入口に寄った位置にある。同図面点に該当)を識別位置と定めたうえ、墓地内及び墓地北東隅にある電柱(東高裁検証調書表示・各点の電柱、同図面・各点に該当)の外灯及び墓地入口の向いにある人家の電灯を消灯し、右点の電柱からさらに目測二〇メートル位東に寄った同検証調書表示点の電柱(同図面点にある電柱の外灯に該当)を点灯又は消灯させる状態のもとで、被識別者三名(識別者が熟知している者二名と面識のない者一名)を適宜「平服(オーバー姿)」或いは「八寸」を頭から羽織らせるなどの恰好をさせたうえ、共同墓地北東隅路上(同検証調書表示①点、同図面①点に該当)から墓地入口附近路上(同検証調書表示③点、同図面③点に該当)までの間(両地点間は一三・三メートルで、右識別位置点から①点までは一五・一五メートル、また、・・③各点はほぼ一直線上にあり点から③点までは一五・七六メートル、点から③点までは一一・五メートル)を歩行させ、或いはその中間位置に佇立させながら、午後六時二八分から午後七時五分(日没後八五分乃至一二二分経過)までの間識別を試みている。

(3) 識別能否の結果については、

(イ) 歩行開始時刻午後六時二八分(日没後八五分経過)から午後七時五分までの間に行われた識別結果につき、

(Ⅰ) C点の外灯が点灯された状態において、まず、識別位置点からの識別結果をみると、平服姿の歩行の場合には、顔及び衣服の色の識別までは不能であるが、歩行者を雪上にシルエットとして見ることができ、なお、シルエットによる人物の識別は頗る困難である。次に、被識別者に頭から、八寸(半纒)を羽織らせ歩行、又は中間位置に佇立させた場合には、そのいずれもが人物の識別は不能である。

次いで識別位置点からの識別結果をみると、平服姿の歩行の場合には、顔及び衣服の色の識別は不能であるが、姿勢、或いは挙動のシルエットによってようやくにして何人の歩行かが識別出来る程度であり、次に被識別者に頭から八寸を羽織らせ歩行、或いは中間位置に佇立させた場合には、人影が認められたが、人物についての識別は不能である。

(Ⅱ) 点の外灯を消灯した状態において、右識別位置及びの各点から、右①及び③点間を被識別者に歩行させ或いはその中間地点に佇立させながら合計一五回にわたり識別を試みた結果については、人物の識別がすべて不能である。

(ロ) また、午後七時一〇分(日没後一二七分経過)から午後八時までの間に行なわれた実験事例では、点の外灯の点滅に関係なく、右及びの各識別地点から観察した歩行二四回、佇立三回に及ぶ結果は、いずれも人物の識別が不能である。

としている。

(4) 右検証の結果によると、同検証調書が附近住民との識別能力の差違について触れている点(後記2)を考慮しても、目撃地点(前記五の1認定乃至点)からの識別は極めて困難(歩行者が頭から八寸等の衣類をかぶったときには、その程度はとくに強い)であると判断せざるを得ない。

(四) 棄却審における検証(四六・二・二六実施)について

棄却審検証調書、青森地方気象台長三浦三郎作成の四六・一・一九付「資料送付について」と題する書面(棄却審三―九六七丁)及び裁判所書記官作成の四六・二・二五付電話聴取書(同記録―九七六丁)によると、次のとおり認定できる。

(1)  検証時の天象・気象及び四界の状況は、(イ)日没時刻が午後五時二三分、(ロ)月の出は、午後六時三一分で月令は〇・七、(ハ)午後五時二〇分の時点では天空に雲なく、気温〇・五度、午後五時五〇分の時点では天心に星の輝きを見、なお午後六時から午後七時までの気温は氷点下三度、(ニ)四界は積雪に覆われている。

(2)  検証の方法は、共同墓地内の棄却審検証調書表示点(同地点は柴田武良が東高裁検証時に自己の目撃位置と指示した地点を棄却審検証時に特定したもので、別紙図面点にほぼ該当)を識別基準位置と定め、墓地北東隅附近道路上にある電柱の外灯(別紙図面点にある電柱の外灯)を消灯し、同電柱から東方約二五・七六メートルにある電柱の外灯(別紙図面点にある電柱の外灯)を適宜点灯又は消灯した状態のもとで、被識別者六名(識別者が、その容貌、体格及び歩行の態度などを熟知している者、単に顔のみを知っている者或いは当日になってはじめて面識を得た者などである)に適宜「オーバー姿」、「背広姿」、「白いタオルを頬かむり又は首にまいた姿」及び「チャンチャンコを頭から被った姿」など各種の恰好をさせ、墓地北東隅道路上(棄却審検証調書表示点、別紙図面①点に該当)から墓地入口附近路上(同検証調書表示③点、同図面③点に該当)に向け歩行させ、右識別位置点からまず人物の識別を試み、同地点から識別できないときには、それが可能となるところまで、墓地入口方向に識別位置を移動し、同入口から移動後の識別位置までの距離(以下識別可能距離という)の測定を行っている。

(3)  識別能否の結果については、午後六時から午後七時一二分(日没後三七分から一〇九分経過)までの間合計三三回にわたり実験が行なわれ、他の検証と異なって各識別者の識別可能距離を測定しているところが注目でき、

(イ)  識別可能距離の関係からみると、柴田武良ら目撃者が各検証時に、通行人を目撃した際のそれぞれの位置として指示したもののうち、出入口附近からの距離の最も近いのは、別紙図面③点から約九・四メートルの地点(柴田大八の当審検証時における指示地点、前記五の3参照)であるところ、これよりなお離れても識別できた実験事例の存するのは、午後六時八分(日没後四五分経過)までである。

そして、本件目撃時の日没後八九分経過時に近い午後六時四七分(日没後八四分経過)以後の歩行回数一二回、識別延人員四八名による実験事例中、識別可能距離の長いところをみた場合でも、わずかに午後六時四九分(日没後八六分経過)における識別者一名による五メートルの一件(歩行者は白いタオルで頬かむりの姿)にとどまり、それに次ぐのは午後七時一分及び七時三分(同九八分及び一〇〇分経過)における識別者各一名による四メートルの各一件(歩行者はいずれも平服)にすぎず、殆んどが顔前(別紙図面③点に佇立した歩行者の顔前まで近接のうえ認識した趣旨)、或いは一乃至二メートルに接近してはじめて識別が可能であるにすぎないのである。

(ロ)  識別の手がかり、すなわち歩行者の姿、恰好等の関係からみると、午後六時四七分からの歩行実験事例中、歩行者が平服の場合、白いタオルで頬かぶりした場合、チャンチャンコを頭からかぶった場合で各四回(各場合についての識別者延人員は各一六名)づつ行われているが、

(Ⅰ) チャンチャンコを頭からかぶった場合につき、午後六時五〇分と午後七時(日没後八七分、九七分各経過)の実験事例では、識別者四名全員とも識別したものの、三メートル以上離れて姿により判ったものは一件あるにとどまり、その余は顔前が約一メートルの地点まで近づき「顔」により判ったにすぎず、午後七時四分(同一〇一分経過)の実験事例では、識別者一名が顔前で「顔」により識別したものの、他の三名は識別できなかったものであり、午後七時八分(同一〇五分経過)の実験事例では、識別者二名が顔前において識別できたが、残る他の二名は識別できなかったのである。

(Ⅱ) 右(Ⅰ)以外の服装の場合でも、午後六時四七分、同七時二分及び七時一〇分(同八四分、九九分及び一〇七分経過)の各実験事例において、同じ識別者一名によるものであるが、顔前においてすら誤認している。

以上のとおりである。

(4)  右検証結果から推察すると、本件目撃時の日没経過時刻に相当する午後六時五二分ころから午後七時一二分ころまでの間においては、各目撃者らの目撃地点(前記五の1認定乃至点)から、墓地前道路を通行するものを識別することは極めて困難であり、特に八寸(半纒)などを頭からかぶっているときには、ごく接近した地点からでも「顔かたち」に特段の注意を払わないかぎり正確な識別は困難であるものと判断できるのである。

(五) 当審における検証(五二・三・一九実施)について

当審検証調書、青森地方気象台長作成の五三・一・二八付「捜査関係事項照会書(回答)」と題する書面(当審三―四丁)及び裁判所書記官作成の五二・一二・一六付報告書(同記録―二一三丁)などによると、次のとおり認定できる。

(1)  検証時の天象・気象及び四界の状況は、(イ)日没時刻が午後五時四七分、月の入りが午後五時二〇分で月令二九・〇、(ロ)空一面に雨雲が低くたれこめ、星が全く見当らない、(ハ)共同墓地及び附近には残雪が一面にあり、墓地北側の道路に接する辺りを除き全体として積雪量は二〇乃至五〇センチメートル程度で、墓地北側道路に接する附近は、特に同道路の除雪した雪が積み上げられているため積雪量が多く、墓地東側寄りでは一メートル四〇センチ程度に達し、西側に下るにしたがって次第に少なくなり、墓地入口附近においては五、六〇センチメートルとなる。なお、墓地正面の人家の屋根や附近の樹木の枝葉には積雪が見られない。

(2)  検証の方法は、共同墓地内における当審検証調書表示点(同地点は、現地において東高裁検証調書表示点の特定を試みたのであるが、現実の同点位置よりやや移動していることにつき、前掲裁判所書記官作成の五二・一二・一六付報告書添付の図面参照)を識別基準位置と定め、墓地附近にある電柱の外灯(当審検証調書表示・・・各点の電柱の外灯。なお、右・・点にある電柱の外灯は別紙図面・・点表示の電柱の外灯に該当)及び近隣の家屋の電灯を消灯した状態のもとで、被識別者九名(識別者において顔かたち、姿、恰好及び体格等などの特徴について知悉しているもの、面識程度にとどまる者など)に適宜前記棄却審検証のところで述べたと同様に各種の恰好をさせたうえ、墓地北東隅道路上(当審検証調書表示点、別紙図面①点附近にほぼ該当)から墓地入口附近路上(同検証調書表示点附近、同図面③点附近にほぼ該当。なお、点から点までは約一五・一五メートル、点までは一五・七六メートルで、点及び点相互間は約一三・三メートル)まで歩行させながら、識別者において、最初右点から人物識別を試み、同地点で識別できないときは順次共同墓地内の当審検証調書表示点及び点(点は現地において東高裁検証調書表示点の特定を試みたもので、現実の同点位置よりやや移動していることにつき、前記について説示したと同様で、また点は柴田大八が当審検証時にその目撃位置として指示した地点。なお点から点までは一一・五メートル、点から点まで九・四メートルで、特に点はこれまでの各識別実験にかかる検証に際しての識別位置としては墓地入口に最も近いところにある)に移動して、午後六時四〇分から午後七時三〇分(日没後五三分から一〇三分経過時)までの間合計三九回にわたり、識別者延人員一五六名に及んで識別を試み、その際、識別者四名中、特定の一名は、第二回(午後六時四二分)以降右のように識別位置を順次移動することなく点に固定して歩行者の識別にあたった。

なお、歩行者が点附近通過後も数メートルはその姿が識別者の視野に入るため、歩行者の左斜め後及び後姿も識別の判断資料になっている。

(3)  識別能否の結果については、

(イ)  まず、全実験事例を通覧しても、識別者四名全員が一致して歩行者の識別ができたとする事例はなく、うち半分の二名が一致して識別したものに限定してみても、わずかに午後六時四六分(日没後五九分経過)及び午後六時五〇分(同六三分経過)の二事例にとどまっている。

(ロ)  また、識別が可能であった実験事例をみると、

(Ⅰ) 午後六時四四分に、識別者Aが地点からオーバー姿の歩行者を姿、恰好で、

(Ⅱ) 同四六分に、識別者A及びBが点から手拭で頬かむりをした半纒姿の歩行者を姿、恰好及び歩行態度で、

(Ⅲ) 同五〇分に、識別者Aが地点から、同Bが及び両地点から手拭で頬かむりをした半纒姿の歩行者を歩行態度で、

(Ⅳ) 同五三分に、識別者Bが地点から背広姿の歩行者を歩行態度で、

(Ⅴ) 同五六分に、識別者Aが地点から手拭で頬かむりをしたオーバー姿の歩行者を姿、恰好で、

(Ⅵ) 同五九分に、識別者Aが地点から手拭で頬かむりをしたオーバー姿のを姿、恰好で、

(Ⅶ) 同七時八分に、識別者Aが地点から手拭で頬かむりをしたオーバー姿のを姿、恰好で、

(Ⅷ) 同九分に、識別者Aが地点からオーバー姿のを姿、恰好で、

(Ⅸ) 同一四分に、識別者Aが地点から手拭で頬かむりをした半纒姿の歩行者を姿、恰好で、

(Ⅹ) 同一八分に、識別者Aが地点からオーバー姿の歩行者を姿、恰好で、

() 同二五分に、識別者Cが地点からオーバー姿の歩行者を姿、恰好で、

それぞれ、識別したものにすぎない。

右のとおり、識別が可能であったのは、殆んど点である(例外は右(Ⅲ)の実験事例のみ)うえ、当初から同地点のみに固定して、歩行者が道路上に見えはじめてから歩行終了までその歩行態度や姿等を注視していた識別者Aによるものである(例外は(Ⅱ)、(Ⅲ)、(Ⅳ)及び ()の四実験事例のみ)。しかも、右のように特定の識別者Aのみが識別できたというのは、当然のことながら、被識別者について熟知の程度如何によるものであるが、とくにここで留意しなければならないのは、右識別者Aが、例えば歩行者について、午後六時五〇分には識別していたのに、同六時四七分や同七時一分では誤認しているとか、同じくについても、同七時一四分には識別していたのに、同六時五二分では誤認している点であり、これは相当程度の熟知者間であっても、誤認の可能性の大であることを推測せしめるところである。

(ハ)  さらに、歩行者がオーバーを頭にかぶった場合については、午後七時五分(日没後七八分経過。被識別者は右識別された以外のもの)と同一〇分(同八三分経過、被識別者)の二回、半纒を頭からかぶった場合については、同七時一二分(同八五分経過。被識別者は)の一回の実験事例があるが、これら三回とも識別者全員において、誤認するか否かに拘らず、歩行者の名前を全く指摘できなかったし、なお、右識別者A及びBがそれぞれ他の恰好の場合には識別できた歩行者(右(Ⅳ)と(Ⅴ)の事例)であっても、この場合では識別できていない。

以上のとおりである。

(4)  右検証結果によると、本件目撃当時、目撃者の所在地点(前記五の1認定乃至点及び当審における柴田大八の指示地点)から歩行者を識別することは、目撃者と歩行者との熟知程度如何によっては、その可能性を否定できないにせよ、東高裁及び棄却審の各検証結果と同じく、極めて困難(特に頭から物をかぶったときには、その困難の程度はより大)であるといわなければならない。

2 検証結果の全般的評価

各検証のうち、まず、原第一、第二審のそれは、季節が異なるうえ、本件目撃時間である午後六時五〇分乃至七時一〇分より相当早い時間帯で実施されているものであるから、明暗の状況がかなり相違し、これら検証自体の証拠価値をそれほど重視できないけれども、本件目撃時における識別の困難であることを窺わせるものといえよう。

次に、東高裁、棄却審及び当審の各検証は、いずれも本件目撃当日の天象・気象に近似する条件を備えた日時に実施されたものであって、その各結果如何は目撃供述の信憑性判断にとって重要な検討資料とみるべきところ、右各検証の結果は、柴田武良ら目撃者らが目撃した地点から墓地前路上の通行人を誰であるか識別することは困難であり、ことに、通行人が八寸(半纒)を頭からかぶっているときには、その姿、恰好などの特長を把握し難いために、識別が著しく困難であって、かなりの熟知者間においても誤認の可能性が大きく、顔の直前或いはごく接近して、「顔かたち」までも手がかりとしないかぎり正確な識別は困難であると判断できる。

もっとも、識別能力に関連して、東高裁検証調書に「本検証現場の、積雪があり、また付近に照明設備のない状況は、識別者の生活環境である積雪のない照明設備の完備した都会の状況とは極めて対照的であった。従って、識別能力についても冬期間中積雪があり、照明設備も完備されていない暗い環境に慣れている付近住民の能力とは自からかなりの差異があるものと感じられた」との記載がなされており、かかる事情も十分考慮しなければならないが、右差異を明確にしうる特段の事情が存在しないこと、及び本件目撃の場合には、予め識別を目的としていたものでなく、目撃者らは全く偶然に通行人を目撃したものであるのに反し、右各検証における識別実験では、いずれも平素からその顔かたち、姿、恰好等を熟知しているものを加えた特定の少人数を被識別者としたうえ、識別判断を加えるに際しても一瞥にとどまることなく、歩行者に対し特に注視を継続した状態で、そのうえ同一機会に反覆して行なわれた結果であること等を考えると、右記載の事由をもって、たやすく右判断を左右することはできない。

八 目撃供述の信憑性

1  柴田公人らの識別の確実性

通行人を自己の判断で被告人であると識別したものは、柴田公人、巌及び大八であるところ(前記六の1参照)、同人らの識別に関しては、次の事情からみて、かなりの確実性を窺えないわけではない。すなわち、

(一) 本件当時同人らの居住していた小舘部落は戸数僅か五、六〇戸程度であって、本件発生の約一年半以前に被告人もここに移り住むようになったところ(後記第六の一の1)、巌においては、たまたま本件発生の前年の夏ころ、部落内の火の見櫓に登った際、これを修理していた被告人に叱責されたことの印象が強くあって(同人の東地裁証人調書及び当審供述・東地一の二―一二八丁、当審五―二九七丁・三一一丁)、被告人を目撃当時以前より相当認識していたものであるし、公人及び大八においても、被告人とは一七歳以上の年齢差があり、平素互いに特別言葉を交わしたことはなかったけれども、通学の途中家の前で仕事をしている被告人の姿を幾度か見かけており、さらに大八においては、被告人が当時身を寄せていた妻雪枝の実家の長内孝雄(当時一〇歳)と友達で、同家に遊びに行った折にも見かけているのであって(公人の員調、原第一審・東地裁各証人調書及び当審供述・東地二の四―一一〇丁、二の一―一六七丁裏、一の二―一〇七丁裏、当審六―六三九丁、大八の員調及び当審供述・東地二の四―一一八丁、当審四―五四丁裏)、右両名ともある程度被告人を見知っていたものである。

(二) 同人らは当時年少者ではあったが、本件識別は、いわゆる面通しなど過去の体験を相当期間経過後に再現して同一性を識別するのとは異なり、自己の平素からの認識にもとづいて、目撃した際にその場で通行人が「誰」であるかを判断したという単純な事柄に属するものであるから、その判断の確実性には軽視し難いものがあり、もとよりこの判断過程に柴田武良ら成人の影響は全く存しない。

2  誤認の可能性

柴田公人、巌及び大八の三名は被告人を見知っているというものの、本件目撃当時通行人を被告人であると判断するにつき、特段その者の「顔かたち」まで確認したわけではなく、八寸(半纒)様の衣類を頭から被った姿、恰好から識別したにとどまるところ(前記六1の(三)、(四)参照)、同人らが日没後の本件目撃時刻に該当する時間帯に、右のような姿、恰好をした被告人を一度でも見かけた体験を有する旨の証拠は全く存在しないし(一般的に言って、夜間における人の姿、恰好についての印象は日中のそれとはかなり異なるものがあろう)、右のような目撃状況では、かなりの熟知者間であっても、「誰であるか」の識別は頗る困難であることは前記検証結果(七の2参照)により明らかであるから、右公人らの識別には、誤認の可能性も多分に存することを考慮しなければならない。

また、公人及び大八においては、前記のように被告人を幾度か見かけたことがあるというだけで、巌と異なり特段被告人を深く記銘する体験のないことからすれば、同人に対し、それほど十分な認識を有していたものとは推認し難いところであって、右両名が通行人を被告人である旨判断する際には、巌が最初に発していた「あれ雪婿だ。」との言辞による影響を全く受けなかったとまでは断定し難い点に留意する必要がある(巌が目撃者の中で最初に右発言をしたことにつき、柴田武良の検調、フミの員調及び検調、公人の員調など・東地二の四―九七丁・九二丁・一〇二丁裏・一〇九丁裏)。

なお、目撃者五名のうち、特に右三名は、捜査官に対する供述以来一貫して、目撃した通行人が被告人であることは間違いない旨述べている。しかしながら、目撃者らが、かかる供述をするにいたったのは、被告人に対する公訴提起後のことであること(柴田武良、同フミの両名については昭和二七年五月九日に司法警察員が、翌一〇日に検察官がそれぞれ目撃内容を聴取し、その余の目撃者らについてはこれよりかなり遅れ、柴田公人については昭和二七年五月三一日に、また柴田巌、大八両名については同年六月一日にそれぞれ司法警察員が右同様に聴取していた。東地二の四―八四丁・九〇丁・九四丁・一〇一丁・一〇七丁・一一二丁・一一七丁以下)からすれば、目撃当初は不確実な認識であったものが、柴田フミが東地裁の証人尋問において、「被告人が逮捕されたうえ公訴提起されたから、目撃した際の通行人は被告人であると思った。家族の中で話合ったり、逮捕されたりすれば被告人だと思った。」旨供述している(同人の東地裁証人調書・東地一の二―八九丁裏・九二丁裏・九三丁)ように、被告人の逮捕・裁判という事実の発生により、右各人の認識が確信にまで高められた可能性は十分存在するのみならず、共同生活を営む目撃者ら家族間においては、折りに触れた話題の中で相互に影響し合うことは想像に難くないところであって、右各供述の一貫性自体は特段重視すべきものではない。

3  柴田洋の供述について

(一) 同人の員調及び原第一審証人調書(東地二の四―一一九丁以下、二の一―一七二丁以下)によると、柴田武良の実弟で、当時同人らと一緒に生活していた柴田洋(当時一五歳の中学校三年生)は、被告人を見知っているものであるが、「本件目撃当日の午後六時すぎ頃、新聞配達の途中、里村商店と被告人宅の間にある長内石藏宅の前辺りの道路で、里村商店の方向へ歩いてくる被告人と出会い、その後三分位経過して、柴田武良宅付近で同じく里村商店の方へ歩いてくる柴田武良らを認めた」趣旨を供述し、これに照応して柴田武良、フミ、巌及び大八らも「当時洋に出会った」旨の供述をしている(武良の検調、フミ及び巌両名の東地裁各証人調書及び大八の当審供述・東地二の四―九九丁、二の一―一六四丁裏・一七一丁、当審四―七六丁・一〇六丁)。しかるに、柴田武良らが里村商店へ行く途中、里村商店から同じ一本道を歩いてくる通行人に出会った、とする証拠が存在しないところから、柴田洋の右供述を前提とするかぎり、被告人の「里村商店でタバコと菓子を買って、そのまま自宅に帰った」旨の弁解(同人の原第一審六回公判調書、東地裁証人調書中の各供述記載及び当審供述・東地二の二―五八六丁、一の三―二一四丁、当審六―七〇一丁)はいささか不自然であり、かえって、同人は里村商店からそのまま被害者宅に赴いて犯行を遂げ、その帰宅途中柴田武良らに目撃されたとの推論がなり立ち、同人らの目撃供述の信憑性を補強するかのごとく思われないではない。

(二) しかしながら、右洋の供述内容中特に重要な部分、すなわち新聞配達の途中で被告人であるとする人物に出会った際の状況につき、当初は「服装はどういうものであったか良く記憶していない。言葉も交わさずに通りすぎた。」というものであった(同人の員調・東地二の四―一二〇丁裏)が、その後、目撃者らの供述するところに微妙に符合するような「オーバーか着物をかぶって歩いて行った。」(同人の原第一審証人調書・東地二の一―一七四丁)と変容していること、及び前記2で述べたように武良らと一緒に生活していて家族間で本件犯人についての憶測等が話題にされることによって、目撃者らの影響を免れないこと等を併わせ考えれば、同人が当時道で出会ったとする人物に対し、なんら挨拶も交わさずに行き違っただけで、特段の注意、関心もなく、その者が被告人であるとまでは明確に識別していなかったものが、漸次被告人であると考えるようになったのではないかと推察することもできる。

また、仮に被告人に出会ったとする右供述が真実であるとしても、原第一審検証調書(一)添付の見取図、原第二審検証調書見取図第一図、裁判所書記官作成の五〇・一二・一二付歩行実験結果報告書(再審七―二一四六丁)、前掲柴田洋の員調及び原第一審証人調書などを総合すると、柴田洋が被告人であると判断した人物と出会った地点は里村商店の手前約一五〇メートル附近の所で、同地点から右商店に赴き折り返して被告人宅に帰った場合の通算歩行距離にしてもわずか三五〇メートル内外にすぎないこと、また、右洋がその後に里村商店方向へ歩いてくる柴田武良ら一行を見かけたのは、前掲洋の供述によっても三分程度経過後のことであって、右武良らはその時未だ被告人宅からさらにその西方(里村商店とは反対方向)約二四〇メートル離れた同人宅附近路上を歩行中であったことなどが認められ、これらの事実とともに、柴田武良ら一行は当時子供連れであり、雪道をゆっくりとした足取りであったこと(前記三1(二)の(2)参照)を併せ考えると、被告人が右商店で煙草等を買って帰宅した後に、目撃者らが被告人宅前路上を通過して同商店に赴いたため、途中被告人と一度も遭遇しないような事態が生じたものと推測しうる余地もある。特に長内義昭の二七・三・二付員調及び原第一審証人調書、里村隆の二七・三・三付第一回員調(東地二の五―一四一丁以下、二の一―二一三丁以下、二の五―一一三丁以下)などによると、右義昭は里村隆の友人であって、被告人が同商店に煙草等を買いに来た際には、同商店前で右隆と「雪切り」をしていたのであるが、同人は、被告人が先に煙草等を買いに来て、その後に柴田フミらが菓子を買いに来たが、その時間的関係は「二〇分か三〇分位先と思うがはっきりしない。被告人が煙草を買いに来てから間もなく来た」趣旨の、双方の来店には相当の時間的間隔があったことを推認させる供述をしている(同人の原第一審証人調書・東地二の一―二二五丁裏)のであって、この供述は、前記推測の余地を裏付けるにたりるものといえる。

(三) 要するに、柴田洋の供述はなんら目撃者らの目撃供述の信憑性を補強するものでない(なお、このことをもって、被告人が実際に里村商店から帰宅したということを肯定するものでないことは勿論である。後記第六の三5の(一)参照)

九 まとめ

以上のとおり検討してきたところによると、柴田武良ら目撃者が墓地前道路上の通行人を被告人と識別した旨の供述の信憑性には、軽視し得ないものがあるけれども、本件各検証の結果に鑑み、かなりの誤認の可能性を軽々に払拭できない以上、他の証拠との関係において、本件犯行と被告人とを結びつける重要な資料であるとしても、この目撃供述のみからは、いまだ通行人が被告人であるとまでは断定し得ないものといわなければならない。

第五遺留精液斑と被告人との結びつきの可能性についての検討

司法警察員作成の二七・二・二六付実況見分調書(東地二の二―三八七丁)、医師荻原清澄作成の同日付の死体検案書(東地二の一―七二丁以下)、同医師の原第一審証人調書(東地二の一―二四三丁以下)、赤石第二、第三鑑定書及び赤石第一供述によると、本件犯行発見当時、被害者すなの屍体恥骨縫合上縁部及び外陰部並びに被害者が当時着用していたミヤコ腰巻及び格子模様毛腰巻などに精液斑が付着していたこと、そしてこれらは犯行現場の状態からみて、犯人が遺留したものと認められるのであって、これら精液斑は、本件犯行と犯人とを結びつける重要な物的証拠であるから、以下遺留精液斑と被告人との結びつきを検討する。

一 被告人の血液型

A型の非分泌型である。

1  被告人のABO式血液型がA型であることは赤石、山沢、上野及び村上各鑑定(赤石第一鑑定書、山沢第一鑑定書、上野第二鑑定書、村上鑑定書。いずれも被告人の血液或いは体液を直接検査したもの)によって明らかである。そして後記三のとおり、遺留精液斑のそれも同じくA型であって、ABO式血液型に関するかぎり両者は同じである。

2  次に、人の体液(唾液、精液など)一定量中に含有される血液型物質の割合(量)が多いか、又は極めて少い(又は検出しがたい)かを基準とするS式(又はSe式)血液型については、上野、山沢両鑑定人は、被告人の精液及び唾液等について、単に抗A凝集素によるのみでなく、抗Lea凝集素や抗H凝集素等を使用した凝集素阻止試験を行って、その血液型が通常の分類基準によれば「非分泌型」であることを明らかにしている(上野第二鑑定書、山沢第一、第二鑑定書)。

この点につき、被告人の唾液を用いて凝集素阻止試験を行った村上鑑定書においては、その凝集阻止価が25乃至26稀釈度を示したことをもって、同鑑定人等の分類区分に従えば「弱分泌型」に属する、と判定しているが、古田鑑定人によると、村上鑑定書に掲記されている阻止試験の検査成績は、検査の技術的条件如何を考慮すれば、むしろ「非分泌型」と理解するといい(古田供述・再審四―一〇五四丁以下)、また村上鑑定人自身も、検査条件が異なれば、通常の分類基準による「非分泌型」の範疇に入る可能性のあることを否定していない(村上供述・東高三―六九二丁以下)のであって、右村上鑑定は必ずしも右上野、山沢両鑑定に反するものではない。

なお、昭和二八年当時(原第二審審理中)被告人の唾液につき凝集素阻止試験を行った赤石第四鑑定書では、右唾液が四〇九六倍稀釈まで凝集を阻止した成績から「A型の強分泌型、すなわち所謂分泌型」と判定し、右認定と矛盾する。これについて、赤石鑑定人は、被告人の年令の変化とともに血液型物質の分泌能力に変化を来たし、青年時代は分泌能力が特に強いから、自己の右検査結果とその後の右上野、山沢両鑑定の結果とは矛盾しない趣旨を説明しているところ(赤石第五供述・東高二―五三七丁、赤石第七供述・再審六―一九五三丁、赤石第八供述・再審六―二〇二〇丁各以下)、なるほど右上野、山沢両鑑定は、右赤石鑑定より一五年後のことであるから、年令の変化や検査条件・方法の相違等によっては同一人に対する検査成績上、凝集阻止価に試験管一、二本程度(稀釈率にして二分の一乃至四分の一或いは二倍乃至四倍)の差異を生ずることがありうるとしても、右四〇九六倍稀釈まで阻止したものが、右上野鑑定では二倍稀釈(21倍)、右山沢鑑定では一六倍稀釈(24倍)までの阻止又は吸収の減弱を示すにすぎないものにまで変化するといった、明らかに分泌型であるものが、非分泌型に移行するような血液型物質の量的変化を生ずることを認める理論は一般的に容認されているわけでもないし、またかかる実際事例も存在しないのであって(上野第二鑑定書、上野第三供述・東高二―三八七丁裏、同第四供述・再審三―八五〇丁、山沢鑑定書、山沢第二供述・東高二―四三六丁裏・四五〇丁、同第四供述・当審五―三六三丁~三六九丁裏、古田鑑定書、古田供述・再審四―一〇六九丁など)、右赤石鑑定は採用できない。

3  なお、長内芳春の血液型はA型の分泌型と認められる(菊地鑑定書)。

二 本件遺留精液斑の血液型判定についての問題点

ABO式血液型では被告人精液と遺留精液斑とは符合するのであるが、被告人の体液がいわゆる「非分泌型」に属することが明らかにされた以上、右符合の点のみで両者の結びつきの可能性を肯定するわけにはいかない。すなわち、遺留精液斑を直接に鑑定した唯一の赤石第二、第三鑑定は抗A・抗B凝集素使用による定性的吸収試験をなしたにとどまり、血液型物質を定量的に検査して「分泌型」、「非分泌型」の鑑定を行ったものでないところ、「非分泌型」に属する人の体液中には血液型物質が少量であり、検体として使用する体液の量如何によっては同物質の検出が困難であって、右のような定性的吸収試験法では、A型の人でも、「O型若しくは血液型不明」と判定される場合が生ずるため、本件において遺留精液斑が「A型」と判定されたことは、かえって、それが「分泌型」の人の体液に由来する可能性もあると考えられるところから、ABO式血液型とは別途に、両者の適合の可能性を検討することが必要となる。

なお、非分泌型の人であっても、検査に使用する体液の量如何によっては、その血液型の判定が可能であり、現に被告人の場合には前記のとおり多少とも血液型物質が分泌されて、血液型の判定が可能であるから、「非分泌型」の故に、直ちに遺留精液斑と被告人の精液との結びつきを否定できないことはいうまでもない。この点につき、赤石鑑定人は、当初原第二審における証人尋問の際に、赤石第一、第二鑑定で遺留精液斑からその血液型をA型と判定できたから、被告人体液が非分泌型に属するものであれば、右遺留精液斑が被告人に由来しないことが断定できる、との趣旨の供述をしている(赤石第三供述・東地二の二原第二審―一〇七丁以下)が、同供述は採用できない。

そこで問題は、新たに、被告人の体液を使用して、赤石第二、第三鑑定と同じく定性的凝集素吸収試験を行った場合に、(1)右各鑑定書掲記の、遺留精液斑に対する血液型の検査成績と同様の成績が得られるか否か、(2)得られるとしても、その検体使用量や検査条件等の関係が右各鑑定書におけるそれらに矛盾することがないか否か、という点である。そして、この点をめぐり、遺留精液斑と被告人精液との符合の可能性について、鑑定所見は、肯定的に解するもの(古田鑑定)と否定的に解するもの(上野第二、第三鑑定、山沢第一、第二鑑定)とに分かれている(三木鑑定書は、右可能性を否定できないとする趣旨のものであるが、右上野、山沢各鑑定に対する信憑性を争うための証拠である)。

三 遺留精液斑及び赤石第二、第三鑑定

1  赤石第二鑑定書によると、おおよそ、次のとおりである。

(一) 精液斑付着状況

(1)  恥骨縫合上縁部に、約二倍拇指頭大の広さにわたり、乾燥した状態で、薄く付着しており、その表面は光をよく反射し輝いていて、メスで容易に剥離できる状態であった。

(2)  また、やや疎生した陰毛にも処々において固着していた。

(二) 血液型検査

右の下腹部及び外陰部に付着している精液斑(以下、下腹部付着精液斑という)の一部を検体資料とし、抗A・抗B凝集素価共に八〇倍のO型血清を二〇倍に調整した稀釈液(力価四単位となる)を用いて定性的吸収試験を行ったところ、別紙赤石鑑定検査表第1のとおりの検査成績を示し、その成績から抗A凝集素を吸収し、抗B凝集素を吸収しなかったとして、右精液斑をA型と判定している。

そして、右検査表から明らかなように、A型血球の検査系列(抗A凝集素による検査系列)の成績(以下この検査成績を「下腹部検査成績」という)では、対照の反応成績と比較して精液斑の場合には、稀釈率が二〇倍のところでは未だ反応が不完全であるが、四〇倍、八〇倍のところ、すなわち二段階において完全に凝集素の吸収を示していることが明らかである。

2 赤石第三鑑定書によると、おおよそ、次のとおりである。

(一)  精液斑付着状況

(1)  被害者着用の毛糸腰巻(ミヤコ、証第五号)には、二箇所の部分―鑑定書では及びと称している―に、紫外線照射により約拇指頭面大の広さにわたって螢光を発する状態で付着していた。

(2)  同毛糸腰巻(証第六号)には、三箇所の部分―鑑定書では・・と称している―に、右同様紫外線照射により螢光を発する状態で付着していた。

(二) 血液型検査

右の・及び・・にそれぞれ付着している精液斑(以下、腰巻付着精液斑という)の各一部について、抗A・抗B凝集素価共に六四〇倍のO型血清を二〇倍に調整した稀釈液(力価三二単位となる)を用いて定性的吸収試験により血液型検査を行ったところ、別紙赤石鑑定検査表第2のとおりの検査成績を示し、その成績から右各精液斑はいずれも抗A凝集素を吸収し、抗B凝集素を吸収しなかったとして、いずれもその血液型を「A型」と判定している。そして、右検査成績から明らかなように格子模様毛腰巻の部分についてはA型血球検査系列(抗A凝集素による検査系列)において他の精液斑部分より吸収反応が著しく稀釈率が八〇倍ないし六四〇倍のところ、すなわち四段階において完全に吸収反応を示し、また及びのそれにくらべても稀釈率が八〇倍ないし三二〇倍の三段階において強く反応していることが明らかである。

同検査表では、毛糸腰巻付着の・・の精液斑のうちのみの検査成績を掲記してあるようにみえるが、同鑑定書記載(第一(3)の(n)の項・東地二の一―六八丁)によると、のみならず、これと及びの三箇所の精液斑を一緒にして、その一部について検査をしたものと解される(但し、以下においては、検査表の記載に従って単にという)。

3 赤石第二、第三鑑定は、その検査方法に格別問題はなく適切であると認められる(古田鑑定書、上野第三鑑定書、山沢第三供述・再審六―一九〇八丁)。そして、その検査成績の正確性については、被告人の前記唾液の場合とは異なり、これを検討することのできない本件においては、その正確性を前提としたうえで考察するほかはない(なお、赤石第四鑑定における被告人唾液による血液型の判定になんらかの過誤があることを指摘できる((前記一の2))にせよ、それだからといって、当然に右第二、第三鑑定の検査成績を疑問視できないことはいうまでもない)。

四 各鑑定の検討

遺留精液斑と被告人精液の一致する可能性につき、まずこれを肯定的に解するもの、次いで否定的に解するもの、の順で考察する。

1  古田鑑定について

(一) 古田鑑定書は、赤石第二鑑定書の下腹部付着精液斑に関するものであり、上野第二鑑定書の検査方法を適切であると判定したうえ、上野第二鑑定における共同鑑定人一〇名が被告人精液について行なった吸収試験の検査成績をもとにし、さらに自らも212単位の阻止価を有する分泌型唾液と23単位の阻止価を有する非分泌型唾液(後者の唾液の阻止価は、被告人唾液のそれと近似していることにつき前記一の2参照)をそれぞれ薬包紙に塗布して乾燥させ、数種の大きさに切り取り、各切片ごとに凝集素価(力価)八単位の血清を使用して凝集素吸収試験を行ない、この検査成績を参考にして鑑定している。

その結論は、「赤石第二鑑定の遺留精液斑は、分泌型と断定することはできず、むしろ非分泌型である可能性もあり、被告人の精液と一致する可能性もありうると考えられる。」とするもので、その理由は次のとおりである。

まず、(1)右上野第二鑑定における一〇名の共同鑑定人中、B・F及びHの三名の被告人精液に対する検査成績(力価四単位に相当する稀釈部分以下のもの)が赤石第二鑑定の下腹部検査成績(別紙赤石鑑定検査表第1)に近似することを指摘する。次いで、下腹部検査成績に近似した吸収成績を示すに必要とされる被告人精液量に関しては、右三名の検査成績にもとづいて、赤石第二鑑定の力価四単位の抗A凝集素使用の場合における精液必要量の理論値の算定を行ない、右赤石第二鑑定が抗血清〇・三ミリリットルを使用したとすれば(同鑑定の実際の血清使用量が〇・三ミリリットル位であったことが窺われる。赤石第七供述・再審六―一九六四丁裏)、その精液必要量は〇・〇一ミリリットル以上であるとし、赤石第二鑑定当時その検体資料として〇・〇一ミリリットル以上を使用したものとすると、遺留精液斑が被告人のものである可能性が考えられるとし、さらに、自己の行った参考実験において、23単位の阻止価を有する非分泌型唾液が赤石第二鑑定と同様の反応成績を示したのが唾液斑一×一センチメートル、その絶対量〇・〇二ミリリットルの事例であったことから、検体資料として〇・〇二ミリリットル位を使ったのであれば精液斑が被告人の精液であって差し支えないとしている(古田供述・再審四―一〇九六丁。右理論値とこの参考実験を併せ考えれば、被告人精液の場合では〇・〇一乃至〇・〇二ミリリットル位というのが、同鑑定人の指摘する検体必要量と理解される)。そして(3)〇・〇一ミリリットルの唾液の場合には、最大限二×三センチメートルの範囲位にしか塗付できず、しかもこの広さは、赤石第二鑑定書の指摘する二倍拇指頭大の面積に付着した精液斑と同じ位と推測できるから、この精液斑の精液存在量は〇・〇一ミリリットル以上であったことが推定できるとし、遺留精液斑が被告人の精液であっても、赤石第二鑑定と同成績を示す可能性がありうるとする。

古田供述は右鑑定書と同趣旨のものである。

(二) 古田鑑定人は、腰巻付着精液斑に関する赤石第三鑑定書の検査成績(別紙赤石鑑定検査表第2)についても、次のように判定している。すなわち、

右精液斑・との吸収成績の相違は検体資料の量的相違であるとし(この点は各鑑定人とも同意見である。上野第五供述・再審六―一八六二丁裏~一八六三丁裏、赤石第七供述・再審六―一九七〇丁)、のように強い吸収成績を示したことについても、が力価一六単位(稀釈率四〇倍)の所で、対照に対しと減弱効果を示しているところ、前記共同鑑定人中D・Eの被告人精液についての検査成績が右に近似した減弱効果を示していることを指摘し、検体使用量が〇・〇二ミリリットル位以上であれば、の精液斑が被告人の精液である可能性があるとしている(再審四―一一〇六丁・一一一五丁各以下)。

(三) 右古田鑑定書及び古田供述の指摘する鑑定の経過、結論そのものには、特段の疑問点を認め難い(なお、精液のかわりに唾液を使用して実験を行っているが、精液及び唾液の各血液型物質は、ほとんど同じであるか、或いは精液の方がやや多いとされている((上野第三鑑定書、山沢第四供述・当審五―三七八丁裏。現に被告人の場合には、山沢第一鑑定書によれば、その唾液が精液に比し半段階吸収程度が強いが、同第二鑑定書では、吸収程度が同じである))から、右検体の選択には合理性があるわけである)。

しかしながら、その前提となる検体量が赤石第二、第三鑑定においても使用できたか否かが問題となるところ、当の赤石鑑定人自身は、その量は全く不明である旨供述している(赤石第五乃至第七供述・東高二―四九六丁裏・四九九丁、再審二―五五二丁、再審六―一九九六丁など)のであって、結局赤石第二、第三鑑定書の記載に依らざるを得ない。しかし、まず下腹部付着の精液斑の量については、古田鑑定人が前提とする赤石第二鑑定書記載の二倍拇指頭大につき、赤石鑑定人は「拇指頭を縦に見た範囲、広さではなく先の方の面積である。平らなところを押しつけた場合に接触する程度のところは、拇指頭面大という。」(赤石第八供述・再審六―二〇四四丁)というのであって、古田鑑定人の推定する拇指を押しつけた場合の面積(二×三センチメートル)とは意味を異にし、したがって、同鑑定人指摘の面積よりもかなり狭い範囲である。また、赤石第三鑑定に関するの部分の面積については同鑑定書に全く記載がなく、量の推定は不可能である。しかも、下腹部付着及び腰巻付着の各精液斑につき、赤石鑑定人は、いずれも数回に分けて検査したというのである(赤石第三、第八各供述・東地二の二原第二審―一一五丁、再審六―二〇四五丁)。したがって、結局その検体使用量は全く不明というほかはないから、古田鑑定人の鑑定及び供述は、遺留精液斑と同様の検査成績を示すための被告人精液の必要量の指摘として意義があるにしても、これをもって、直ちに赤石第二、第三鑑定の遺留精液斑と被告人との結びつきの可能性を肯定すべき証左とはなし難い。

2  上野鑑定について

(一) 上野第二鑑定書は、被告人の血液、唾液及び精液の血液型のほか、特に乾燥させた精液斑の血液型の鑑定をなすもので、被告人の唾液及び精液を採取して、自らその凝集素阻止試験(精液については、力価一二八倍の一〇倍稀釈((力価一二・八単位となる))の血清を使用)を実施したうえ、さらに代表的研究者一〇名に右唾液及び精液の各一部(精液については一名宛〇・〇八ミリリットル)を送付して、少くとも一つの検査方法として「抗A及び抗B凝集素吸収試験法」を用いて血液型の判定をすることを依頼し、その各判定結果を併せ考察して鑑定している。

その結論は、被告人の精液中に含有されるA抗原(型物質)量は非分泌型の特性に一致し、極めて微量である、としたうえ、「被告人の精液が実際の事案における如く極めて少量にしか存在しないか、あるいはその他の人の体液と混在して発見される場合にあっては、これを普通常用の吸収試験法によりA型と判定される場合はむしろまれであろうと考える。」というものである。そして、その鑑定理由として、次のとおり説明する。

まず、(1)同鑑定人自身が行なった凝集素阻止試験の検査成績から、被告人精液についてA型と判定できる量的問題については、「力価一二八倍の二〇倍稀釈抗血清〇・二ミリリットル使用の場合の確実にA型と判定できる精液量が〇・一ミリリットルであることから推算すれば、六〇倍稀釈抗血清〇・二ミリリットル使用の場合のそれは〇・〇三ミリリットル、すなわち米谷精液の一滴(〇・〇四ミリリットル)より少量となる。」とし、これからすれば、「実際事案における如き少量の精液斑の場合にあってはその検査からこれをA型と判定することは極めて容易であるとすることは妥当でないと考える。若しある実際事案においてその精液斑が何の問題もなく簡単に『A型』と判定されたとすれば、それはむしろ米谷に由来する精液でない可能性が大であるとしなければならない。」という(上野第二鑑定書・東高二―二九四丁)。

次に、(2)「血液型の判定を目的とする以上、型物質が分泌されているかぎり型の判定ができるように、検査者は、経験に基づいて、検体の付着の程度から、抗血清や検体使用量を適当に調整して鑑定を行うものである。量を問題とするのは疑問である。」趣旨の経験的見地を強調し、この観点から赤石第二、第三鑑定書の検査成績をみるときは、「本件遺留精液斑はA型の分泌型の精液であることは明らかである(腰巻付着ののときは特に明瞭である)。」というのである(上野第五供述・再審六―一八五二~一八五三丁・一八五六丁~一八五八丁・一八七五丁裏~一八七六丁)。

(二) 上野第三鑑定書は、古田鑑定書を実際案件に沿わないものであると批判するほか、上野第二鑑定書及び右第五供述と同旨である。

同鑑定人の各供述も右上野第二、第三鑑定書と同趣旨である。

(三) しかしながら、右鑑定書及び供述には、次のような疑問点が存する。

(1)  検体として使用する精液斑の量的把握を前提とする点については、「実際事案における少量」とは、具体的にどの程度を指すかを確定したうえ、赤石第二、第三鑑定での使用量を推定しないかぎり、客観性を欠く抽象的な判断にとどまるものであって、にわかに首肯できない(なお、赤石鑑定人は、自己の判定と同じように被告人精液から『A型非分泌型』又は『A型』と判定した上野第二鑑定における五名の共同鑑定人の使用量をもって、上野鑑定人がなぜこれを大量というのか疑問であるとし、古田鑑定人も、右共同鑑定人らの使用精液量の〇・〇一乃至〇・〇二ミリリットルは、量としては少量であるというのである。赤石第五供述・東高二―五五九丁~五六一丁、古田供述・再審四―一一三一丁裏)。

(2)  検査者の経験的見地に関して

各検査者は、その経験にもとづいて適切な検査条件を設定し血液型の判定にあたるものであるが、各検査者によって、その検査条件、すなわち、血清の力価、稀釈率、血清の性質(吸着性)、検体使用量(これは、実際に存在する斑痕量如何によっても左右されることは当然であろう。古田供述・再審四―一〇七七丁)、凝集或いは吸収のさせ方(温度、時間等の条件)等が異なり、この相違が検査成績に影響を及ぼすものである(赤石第五供述・東高二―五一三丁~五一五丁、村上供述・東高三―六七七丁、山沢第三供述・再審六―一九一九丁、同第四供述・当審五―三七五丁など)。そのうえ、凝集或いは吸収程度の判断とか、検査成績からの判定の仕方(上野第三鑑定書が、赤石鑑定人において・の検査成績につき、対照に対する吸収程度の一段差からA型と判定したことをもって大胆すぎる、と批判しているのは、この点に関する)にも検査者の主観的要素が介入する余地がありうるのである(山沢第二供述・東高二―四四五~四四六丁)。(ちなみに、このような検査者による検査条件等の相違の故に、分泌型と非分泌型との限界領域、すなわち、いわゆる中間型領域に属する者については、そのS式血液型の判定が困難とされているわけである)

したがって、自己の経験的な検査条件からの判定について、各検査者による右のような差異を考慮してもなお、その結論を客観的なものとして維持しうるにたりる合理的理由が存在しなければならない。しかし、上野各鑑定及び同各供述を仔細に検討しても、この点につき未だ納得しうる理由は見出し難いのである。

なるほど、上野鑑定人は、その第二鑑定においては、右のような検査条件の相異を見越して、「附着精液量とか検査方法によっては判定結果に差異を生ずるので、検査に影響を及ぼす諸条件について周到な検討を加えるとともに、検査者による『個人差』がどの程度現われるかを知るため」に前記一〇名に鑑定を依頼し、その検査成績をも検討したうえで結論を出したというわけである(第二鑑定書・東高二―二八五丁裏~二八六丁)。

しかしながら、上野第二鑑定書によると、各共同鑑定人の間に検査条件が相違しているほか、被告人精液につき、共同鑑定人中「A型」と判定したものは二名、「A型非分泌型」とのそれは三名、「O型」「O型か非分泌型」とのそれは四名、「O型分泌型」とのそれは一名、というように結論の差異は大きく、かつ古田鑑定書及び同供述によれば前記(1の(一)、(二))のとおり、同鑑定人は、この共同鑑定人の検査条件、検査成績を赤石第二、第三鑑定書のそれと詳細に対比して、下腹部付着及び腰巻付着のいずれの本件遺留精液斑も被告人精液に由来する可能性を否定できないとして、上野鑑定人と相反する鑑定に到達しているわけである(赤石鑑定人も、上野第二鑑定における共同鑑定人F・Hの二名の検査成績―単に「A型」と判定している―が赤石第二鑑定書のそれと近似していることを指摘する。赤石第七供述・再審六―一九六八丁。三木鑑定書も右可能性を否定できないとしていることにつき後記3(三)(2)の(ハ)参照)から、右上野鑑定所見は未だ客観的、合理的な理由を有するものとはいい難い。

もっとも、上野第三鑑定書は、古田鑑定人の右所見に対し、遺留精液斑の付着物件の性質を無視するもの、すなわち、(イ)精液が腰巻等の布に付着した場合には、以後の侵出性が減退し、抽出量が減少するとか、(ロ)付着精液斑中の「型物質」が細菌等の影響で減弱することも考慮する必要があるのに、これを考慮していない、と批判するのである。しかし、古田鑑定人が右(イ)の点と同趣旨の供述をしている(古田供述・再審四―一一一八丁裏~一一一九丁)ことに徴し、当然かかる点を考慮していることが認められるし、右(ロ)の点については、本件遺留精液斑については、付着時からの経過時間、季節的関係等からみて細菌による影響を考慮する必要のないものであることは、山沢第四供述(当審五―四三四丁~四三五丁裏)と三木鑑定書(当審三―一三四丁)によって明らかなところである。したがって、上野第三鑑定書の右批判は当らず、その他同鑑定書、同鑑定人の各供述は、右古田鑑定所見を左右するにたりない。

そうすると、赤石第二、第三鑑定における検体使用量の検討とは別途に、各検査者の経験的見地からする、上野鑑定人の前記鑑定所見にもにわかに賛同できない。

(四) 以上のとおりであるから、上野第二、第三鑑定及び同鑑定人供述は、たやすく首肯できず、これをもって遺留精液斑と被告人精液との結びつきの可能性を積極的に否定すべき証拠とはなし難いものである。

3 山沢鑑定について

(一)  山沢第一鑑定書は、被告人の血液及び精液の血液型の鑑定をなすものであるが、その参考実験として、赤石第二鑑定の検査法に準じて、凝集素価約八〇倍のO型血清を二〇倍に稀釈し、被告人精液を乾燥させて精液斑としたものを使用し、凝集素吸収試験を行っている。

その結論は、「被告人の精液及び唾液からA型と判定することは不可能ではないが、分泌型の人に比して非常に困難である。」とし、その理由を次のとおり説明する。

まず、(1)赤石第二鑑定どおりの成績を得るために必要とする精液斑の量は四平方センチメートル(約四ミリグラム)以上であるとし、次いで、(2)前記下腹部付着の約二倍拇指頭大の面積は大略五平方センチメートルと推定したうえ、(3)「一般に精液斑、唾液斑において凝集素吸収試験を行う場合、斑痕量はせいぜい多くても一ミリグラム前後(面積にして一平方センチメートル位)である。一度に四乃至五ミリグラム(本件の場合略全量に当る)を使用することは再検査の必要もあるために行わないのが普通である。そして一ミリグラム前後の使用量では被告人精液ではA型とは判定困難である。」というのである。

(二)  山沢第二鑑定書は、被告人精液を布地に付着、乾燥させた状態にして凝集素吸収試験を行ったうえ、その実験成績と赤石第三鑑定書の検査成績とを比較検討するものであって、その結論は、「赤石第三鑑定における証第六号毛糸腰巻に付着したA型精液は、その検査成績と被告人精液斑による実験成績とを対比するに、被告人の精液ではないと考えるのが妥当である。」とするものであって、その実験方法と説明は次のとおりである。

(1)  まず、(イ)抗血清については、一〇例のO型血清中から血液型物質に対する被吸収性の良好なもの五例を選び出し、吸収効果を増大させるために力価を一六単位或いはそれ以下にいずれも調整したうえ、他方(ロ)精液付着の対象物件についても、遺留精液斑の付着していた生地に近づけることを考え、毛織りの布に限定し、A布(薄いもの)、B布(やや厚めのもの)、C布(メリヤス織りのもの)の三種を選択し、さらに、(ハ)被告人精液の付着方法については、右各布片ごとに、それぞれ、(Ⅰ)精液二滴を滴下して乾燥させて斑痕としたもの(通常の付着状態とみる)、(Ⅱ)布片から精液が滴下する程度に浸して乾燥させて斑痕としたもの(一回付着。膣外射精か膣内射精で膣外に洩出したような場合とみる)、(Ⅲ)右(Ⅱ)の方法をもう一度繰り返して乾燥させ斑痕としたもの(二回付着。全く自然に生じたとはみられない場合とする)の三通りの資料を作って吸収試験を行っている。

(2)  しかして、その実験結果のうち、右五例の抗血清中の一例のものにつき、C布2回付着(右(Ⅲ))の場合だけに、赤石鑑定と近似した成績を示したとの判定を前提として、特に吸収効果のよい抗血清を使用し、かつ人工的に特に多量の精液を用いた検査により、右一例のみ右に近似した成績を示し、他ではみることができなかったから、この点からすれば、「赤石第三鑑定がより吸収しやすい血清を選び、かつ被告人精液が一般的想像を超える高濃度であればが被告人精液でありうるが、これは極めて稀なことであり、むしろはA分泌型とみるのが一般的である。」旨の説明をなしている。

(3)  そして、証第五号(と)の付着精液斑については、被告人精液であって差支えないが、証第六号()の検査成績と綜合して考えれば、腰巻付着精液斑全体について、右説明と同様に考えるべきであるとしている(山沢第四供述・当審五―四〇九~四一〇丁・四三五丁裏~四三七丁裏)。山沢第三供述及び第四供述は、同第一、第二鑑定と同趣旨である。

(三) しかしながら、右各鑑定及び各供述には、次のような問題がある。

(1)  山沢第一鑑定について

(イ)  まず、下腹部付着精液斑の存在量の把握を前提とする点については、外陰部付着の精液斑(前記三1の(二))を考慮外とした妥当を欠くものであるうえ、前記(四1の(三))のとおり、古田鑑定におけると同じく、そもそも下腹部付着精液斑の存在量の正確な推定は不可能なところであるから、右を前提とする見解はにわかに首肯できない。

(ロ)  次に、検体資料として用いる量の考察についても疑念を免れない。すなわち、通常斑痕の全量を一度に使用しないとの点では、当の赤石第二鑑定も同様の方法によっている(前記四1の(三))のであって、その限りでは疑問はない。しかし、通常検体に使用する量は多くても一ミリグラム前後であるという(山沢第三供述も同旨・再審六―一八九六丁)けれども、当の赤石鑑定人のみならず、古田鑑定人も、通常の使用量を右程度に限定する趣旨の供述をすることはない(三木鑑定書も同様)し、また、右一ミリグラム前後の精液斑痕量は乾燥前の精液量に換算すると、およそ〇・〇〇五乃至〇・〇一ミリリットルとなる(裁判所書記官作成の四八・三・六付報告書・再審五―一五三七丁、山沢第三供述・再審六―一九一七丁以下、吉田供述・再審四―一〇七九丁などによると、精液の比重は一、〇一〇ないし一、〇四〇で、乾燥精液量は乾燥前の精液量の一〇%ないし二〇%であることが認められる。)ところ、上野第二鑑定書添付の共同鑑定人の各検査報告書及び古田鑑定書によると、前記共同鑑定人中、被告人精液の使用量につき〇・〇一ミリリットルで実験を行ったものは一名のみであり、その余は〇・〇二ミリリットル以上を使用しているのであって、これらの事実に徴すれば、山沢鑑定人の推定する右使用量が、各検査者に共通する一般的なものであるとは是認できない。

(ハ)  したがって、山沢第一鑑定書及び同趣旨の供述の結論をにわかに採用するわけにはいかない。

(2)  山沢第二鑑定について

(イ)  実験的に作出した被告人精液斑のうち、通常の付着状態では考えられない二回付着のものだけから、腰巻付着精液斑のの部分と近似した成績が得られ、他ではみられなかったこと、を前提とするものである。しかし、精液の付着量は、その対象物件によってかなりの差異を生ずることは経験的に明らかなところ(同鑑定書でもC布一回付着の精液乾燥量は、A布一回付着のそれの約六倍強に、同じく二回付着では約八倍に、それぞれ達しており、しかもB布一回付着量がA布二回付着量を上廻っているのである)、実験に用いた三種の布は、赤石第三鑑定書添付の「腰巻の写真」を参考として選択されたものであって、もとよりその近似性の程度は不明なのであるから、右腰巻の布地の性状如何により右実験では異状と考えられる程度の精液量が実際に付着した可能性を否定し得ないものであり、したがって、右のような配慮をしたからといって、赤石第三鑑定のような成績を示すためには、通常考え難い程度の高濃度の精液を要すると断定するのは、なお疑問と思われる。そして、右実験の際検体として使用したのは被告人精液を付着乾燥させた布片のうち、大略〇・五平方ミリメートルである(二回付着の場合であるとその存在精液量は約〇・〇七ミリリットルと推定している。山沢第三供述・再審六―一九〇二丁)が、前記のように、検査者により検査条件に差異のあることに照らすと、右使用量が果して一般的に最大限のものであるかどうかは必ずしも明らかとはいい難いのである(もとより、本件において赤石鑑定人が使用した量が右以下であることを認めるにたりる証拠はない)。したがって、本件事案においては、付着対象物件たる布地の性状如何と、検体としての使用量如何とによって、右山沢鑑定とは異なった検査成績を生ずる可能性をいまだ否定できないように推測される。

(ロ)  また、検査における個人差を免れないことは、前記(四2(三)の(2))のとおりであるところ、右山沢第二鑑定は、右の実験に用いた検体資料のほか、抗血清の性質(吸着性)及び吸収時間、条件等に特に配慮しているのであるが、同じく吸収成績に影響を及ぼす抗血清の使用量のほか、判定基準の差異(山沢第二供述・東高二―四四五~四四六丁)を考慮したうえでも、なおかつ維持できる判定であるかどうか、必ずしも明らかでないように思われる。

(ハ)  さらに、古田鑑定人が、前記(四1の(二))のとおり、上野第二鑑定における共同鑑定人中、特段吸着性の良好な抗血清を選択したわけではない、D及びEの二名の検査成績(上野第二鑑定書添付のD、Eの検査報告書参照)から、被告人精液の量如何により赤石第三鑑定の吸収成績を示す可能性のあることを指摘しているのである(なお、右のほか同じく抗血清を厳選したわけでもない右共同鑑定人Bの検査成績によると、被告人唾液についてではあるが、血清力価一六単位以下に相当する稀釈部分において、と近似する吸収成績を示していることが注目される)。

また、三木鑑定書によると、同人は、一〇数名のB型の人から集めてつくった凝集素価六四単位の混合抗A血清を使い、23単位の阻止価を有する非分泌型唾液(被告人の唾液の阻止価にほぼ近似)を用いて、どの程度の量があれば赤石第三鑑定書掲記のと同じ程度の抗A凝集素吸収能力を示すかについて小実験を行った結果、「吸収試験に使う抗A凝集素の量やその吸収され易さ、腰巻の吸水性、精液と唾液の型質量のちがい」などを念頭においたうえ、「(抗A血清〇・二ミリリットル使用のとき)非分泌型の精液の一滴(〇・〇五ミリリットル)付着してできた斑痕がと類似した抗A凝集素吸収能力をもつ可能性はあるとしてよいであろう。」、「何れにしろは分泌型、非分泌型である可能性がともにあり、何れとも断定は困難である。」と説明しており、この場合、山沢鑑定人のように、血清の性質とか斑痕付着状態の異常さなどは、特段前提としていないのである。

(ニ)  要するに、山沢第二鑑定は、吸収成績に影響を及ぼす検査条件について、それなりに種々の配慮を加えたものであるが、右の各疑問点が存在する以上、同鑑定及び同趣旨の供述にも、たやすく賛同し得ないところである。

(四) 以上の次第であるから、山沢第一、第二鑑定及び同趣旨の供述も、これを採用し難く、これをもって、本件遺留精液斑と被告人精液との結びつきの可能性を積極的に否定するわけにはいかない。

五 まとめ

被告人精液と遺留精液斑との符合の可能性については、本件では、単にABO式血液型が一致することにより当然にこれを肯定できない。そして、赤石第二、第三鑑定の検査成績と被告人体液(唾液及び精液)の検査成績との対比によりその符合の可能性を検討した各鑑定は、肯定的或いは否定的なもの、いずれもこれを採用できないところといわなければならない。したがって、本件遺留精液斑の存在をもって、これを有罪認定の証拠に供し得ないことはもとより、他方被告人と犯行の結びつきを積極的に否定するための資料ともなし難いわけである。

第六被告人自白の検討

一 自白に至る経緯

1 被告人の二七・三・三付員調、同二二付検調及び東地裁証人調書(東地二の二―四二五丁・四七三丁、一の三―二二四丁~二二八丁)並びに戸籍謄本(当審三―二一一丁)、米谷雪枝の二七・三・二付員調、検調及び原第一審証人調書(東地二の三―七八丁・九三丁、二の一―二九六丁)、長内はるの員調及び原第一審証人調書(東地二の三―九九丁、二の一―三〇八丁)、鎌田謙治の検調(東地二の三―七六丁裏)、長内石蔵の東地裁証人調書(東地一の三―一五二丁)によると、被告人は青森市古川において米谷三四の五人兄弟の長男として出生し、古川小学校尋常科六年を卒業後同市内のトタン屋に奉公し、その後兵役に服し昭和二〇年八月の終戦により復員して元の職場に就職し、昭和二一年一一月長内雪枝と結婚をして青森市内で被告人の両親と同居しながらトタン職人として稼働したうえ、昭和二四年ころからトタン屋を自営するに至った。ところが、右雪枝が脊髄カリエスに罹患したことから両親との折り合いが悪くなり、同女が昭和二五年八月ころ実家である高田村大字小舘字桜苅四五番地長内直吉方に戻ったため、被告人は自己の両親の面倒を弟に委ね、同年九月ころ右長内直吉方に転居するとともに本籍地をも同所に移し、以後雪枝の祖父母、母、弟など五人の家族と同居し、青森市内にトタン職人として時折出かけて稼働したり、右長内直吉方の農業や雑仕事の手伝いなどをして、同家の世話を受けながら生活していた。

以上のとおり認められる。

2 関係証拠によると、本件犯行は、昭和二七年二月二六日午前七時ころ、被害者方に夜間だけ寝泊りに来ていた被害者の甥長内義昭(長内芳春の実弟、当時一六年)によって発見され、同人の母親から高田村駐在の森内巡査に連絡がなされ、同巡査が現場にかけつけた荻原医師とともに死体を見分して変死人と判断して、青森地区警察署長に変死人事件の報告をしたことから本格的な捜査が開始された。捜査本部では、翌二七日、小舘部落内の住民から、被告人が犯行当日の午後五時ころより長内石蔵(長内芳春の実父)宅で長内芳春などと共に飲酒し、午後六時ころ里村商店に煙草を買い求めに来ていたこと、被害者方の風呂を以前修理し、また本件犯行の数日前ころに被害者方に入浴に来ていたこと、被告人の妻雪枝が肺結核性カリエスに罹患しているため夫婦間の性交渉が不自由であるうえに、一定の職がなく生活に窮していることなどの情報を入手するとともに、右長内義昭から犯行現場にあった折鶴模様入り日本手拭(原第一審証第一四号)は被告人が日常使用していたものに絶対間違いない、との供述(東地二の五―一三九丁裏)を得た。

さらに翌二八日には別居中の被害者の遺族ら(長男川村芳男、次男川村利男、長女祐川むつ)から、右手拭は被害者のものでない旨の供述(東地二の四―三四丁裏・四五丁・五六丁)を得、三月一日には長男川村芳男から現金一〇〇〇円位が盗まれている旨の被害填末書(東地二の四―五八丁)の提出を受けた。これらの事情から、被告人に対する嫌疑を固め、強姦・強盗(現金一〇〇〇円位の強取)・殺人の被疑事実で逮捕状の発布を受け、翌三月二日午前六時四五分ころ高田村小舘部落内の当時被告人が寄宿していた妻雪枝の実家において逮捕した。

被告人は、当初司法警察員梅木良男による三月二日の弁解録取と同月三日の取調べの際には全面的に犯行を否認していたが、逮捕後三日目である同月四日、検察官渡辺彦一による弁解録取の際「警察では申し上げませんでしたが只今本当の事を申し上げます。私がやりました。」旨概括的に自白をし、同日夕刻の裁判官による勾留質問の際には金員奪取の点を否認し、その余の強姦及び殺害の点についてはこれを自白し、即日青森地区警察署の留置場に勾留され、三月一二日に柳町拘置支所に移監され、三月一三日勾留期間が三月二三日まで延長され、その間右梅木司法警察員による同月四日、五日、一一日、同三浦永作による三月八日、検察官渡辺彦一による三月一七日、同佐藤鶴松による三月二二日における、各取調べに対して、いずれも強姦及び殺害については自白を維持したうえ、犯行の手段・方法或いはその前後の行動、家族関係などについて具体的な供述をしていたが、同月二三日にいたるや右佐藤検察官に対し、自白を翻えして全面否認をし、否認のまま同日強姦致死・殺人の罪名で青森地方裁判所に起訴されるに至った。

以上のとおり認められる。

二 自白の任意性

1 被告人は、右経緯から明らかなように、逮捕されてから三日目に、かつ未だなんら捜査に関与しておらず、事件内容について十分知悉することのなかった検察官渡辺彦一に対する弁解陳述の際に、強制はもちろん、なんら誘導的な追求も受けることなしに、概括的にせよ自白するにいたったのであり(渡辺彦一の東地裁証人調書及び当審供述・東地一の二―一五〇丁以下、当審四―一七一丁以下)、その後一九日間余りの間前記四名の捜査官に対して五回にわたる取調べの際、いずれも姦淫及び絞頸の点については一貫して自己の犯行であることを認めて、重大事犯であるにもかかわらず強硬に否認した形跡は認められない。そして原第一審の昭和二七年八月一五日の公判の際に裁判長からとくに任意性に関し、「供述を強制されたり無理な調べを受けたことがあるか。」と質問されたのに対し、「どこでも無理に調べられたことはありません。(調書につき)間違いなかったので、私が署名指印しました。」旨答え(東地二の二―四二二丁裏)、捜査官に対する各供述調書が任意の供述にもとづくものであることを認めている。しかも、東地裁における昭和四二年八月二六日の長内第一審証人尋問において「当時警察官から乱暴を受けたということはございません。」(東地一の三―二〇七丁裏)とか、さらに再審棄却審において昭和四八年一月一九日に請求人として質問されたときにおいても「別に乱暴って、乱暴された記憶はございません。」(再審五―一四五〇丁裏)などと任意性を自認する趣旨の供述を繰り返しているのである。そこで右各事実からすれば、他に任意性に疑問を懐かせるにたりる証左を見い出し難い本件においては、自白の任意性を肯定することができる。

なお、再審抗告審における昭和五〇年一一月二一日の被告人に対する請求人質問において、警察官の取調状況に関し、「おまえだろう、おまえだろうと言われ、頭をどっつかれた。」、「死んだ人にあやまれと言われ、椅子からおろされ土下座させられた。」、「えり首をつかまれ椅子から引きずりおろされ、頭を押えつけられ、手をついてあやまれ手のつきかたがよくないとか、頭のつきかたが悪いとか言われ、それが自供したということにされた。」旨供述し(再審七―二一〇六丁裏・二一一二丁~二一一三丁)、当審においてもほぼ同趣旨の供述をしている(当審六―七〇九丁)が、原第一審、第二審の各公判調書及び長内芳春に対する強盗殺人・強盗強姦未遂被告事件にかかる東地裁の証人調書中の被告人の各供述記載部分をみても、他にかかる取調状況を窺わせる供述内容は存しないものであり、かえって強制を否定する趣旨の前記供述をしているのであって、右各供述はとうてい措信できない。

次に、右東地裁証人尋問及び当審被告人尋問の際に、はじめて、意に反しいわゆる嘘発見器にかけられて、心理的強制を受けた趣旨の供述をする(東地一の三―二一七丁裏~二一八丁、当審六―七二三丁・七三四丁裏)が、この供述もまた、右認定の経過に照らし、措信できない。

2 もっとも、被告人の二七・三・二三付検調をみると、被告人が三月二三日佐藤鶴松検事の取調べに対し、本件犯行を全面否認した際に、これまで自白をしてきた理由として述べるところは、「最初本件犯行について否認していたが、其の後取調べを受けた際警察官から『お前を見た者がある。犯行現場にあった物がお前の者であると言っておる者もある。お前の妻や家族達に聞いたが現場にある物はお前の物だと言って居る』と言った様な事を述べて尋ねましたから、それほど迄確かな証拠があるのならば致し方ない。やけ気味もあって裁判所で取調べを受ける時に犯人は自分で無いことをいおうと思って仕方なしにでたらめな事を話した。」、「警察で嘘を申しましたから否認しても仕方ないものと思って、検察官にもでたらめを申しました。」(東地二の二―四八一丁裏以下)というものである。そして原第一審六回(昭和二七年一一月二四日審理)、第二審(昭和二八年八月八日審理)の各公判調書、東地裁における証人調書中の被告人の各供述記載部分及び棄却審の被告人に対する請求人質問調書(東地二の二―五八七丁裏以下、東地二の二原第二審―一二四丁以下、東地一の三―二三三丁以下、再審五―一四四六丁)をみると、右各裁判所における審理の際においても、被告人が右趣旨と同様に、「警察では何度否認しても証拠があると言って聞いてくれなかった。それで頭がおかしくなり何んでも聞かれるまま返事した。」とか、「警察で自白したので検察官にも仕方ないと思って自白した」旨繰り返し供述している。

ところで、長内義昭、川村芳男、長内ツゲ及び佐藤鶴松の東地裁各証人調書(東地一の三―九六丁裏~九七丁、一の六―一八〇丁裏~一八一丁・一九九丁裏~二〇〇丁裏、一の三―三四七丁裏~三四八丁)によると、捜査本部では、前記のように犯行を最初に発見した長内義昭(当時一六年)にも嫌疑をかけ、発見当日、同人を任意同行し、後に被告人の取調べを担当して詳細な自白を得た梅木司法警察員が主として当時右義昭の取調べにあたり、午後四時か五時ころから捜査本部の置かれた中野坂小学校において、お前がやったのだろうなどと追求し、その日は令状のないまま同所に留め置き、翌日は高田村の集会所において早朝から夜の一一時ころまで取調べを継続していたことが認められるのであり、このような被告人以外の嫌疑者に対する取調べの方法と、後述するように被告人の自白の重要部分が変転している事実からみれば、被告人が右に弁解するように、担当警察官が時には被告人に対してかなり執拗で誘導的な取調べを行ったのではないかと疑う余地がないではない。

しかしながら、他方、被告人の自白後の捜査官に対する各供述調書及び原第一審、第二審公判調書中の各供述記載部分(二七・三・五付員調・東地二の二―四四九丁裏~四五〇丁、同一七付・同二三付各検調・同記録―四七一丁裏~四七二丁・四八五丁、原第一、第二審各供述・同記録―五八九丁裏~五九〇丁、東地二の二原第二審―一二四丁裏)に徴すると、被告人は、金員奪取及び自白追及の手段とされたという犯行現場に存在していた折鶴模様の日本手拭(原第一審証一四号)の所有の点については、いずれも取調べ当時一貫してこれを否認しつづけたことが明らかである。そして、被害者の長男である川村芳男の「現場に存在していた右手拭は父又は母の所有である」趣旨の、捜査官に対する供述(二七・三・一〇付員調及び同二〇付検調・東地二の四―六〇丁、六四丁各以下。当初同人は被害者のものでないと述べていたが、その後被害者方から同じ模様の日本手拭が発見されたとして、供述をこのように変更したものである)、及び赤石第二、第三鑑定書によって認められる、右手拭に付着する粘液様物質の血液型はB型で、被害者のそれと一致する事実(第二鑑定書説明の章6項・東地二の一―四五丁裏、第三鑑定書検査記録の章第三項、鑑定の章4項・同記録―六七丁裏・六六丁。同鑑定書では右手拭を「証一五号」と称している)を考え併せると、同手拭については捜査機関の当初の見込みに反して、もともと被害者宅に存在していたもので、被告人の所有物ではないことが認定できるのである。そこで右一部否認の点及びその否認にかかる事実が捜査官の見込みに反して客観的事実に符合している点からみると、被告人において捜査機関の見込みに基づく一方的な強制或いは誘導に従ってのみ自白したものとまでは考えられないところであり、前記1の事実をも勘案すれば、先に指摘した取調べに関する疑念の点は自白の信憑性判断にあたり特に留意すべきであるとしても、これをもって直ちに自白の任意性を疑わせるにたりる程度のものとはいい難いところである。

三 自白の信用性

被告人は昭和二七年三月三日から三月二三日までの間捜査官より取調べを受け、弁解録取書を除き八通の供述調書を作成されているが、そのうち司法警察員に対する三月四日付・三月五日付・三月八日付及び検察官に対する三月一七日付各供述調書などにおいて、犯行の動機・態様及び犯行前後の行動などを具体的かつ詳細に供述している。そこで、以下その信用性について考察するが、適宜長内芳春の自白調書中の関係部分にも言及することとする。

1 自白の内容全般について

(一) 被害者方へ赴く経緯及び強姦の犯意形成時期

(1)  三月四日、五日付各員調では、「里村商店で煙草光五個と生菓子五〇円代を買って店を出たが、このとき私はスナが一人で居るから一つやってやる(関係の意)と思って川村の家の方に歩きました。」(東地二の二―四三六丁裏)、或いは「私は被害者方に来る時からやる気持であった。」(東地二の二―四四四丁)旨の内容であったが、

(2)  その後三月八日付員調では、「以前に風呂を修繕に一回と風呂に入りに一回行った事があるので、川村すなのところに遊びに行こうと思って行ったのです。」としたうえ、「川村すなの家に入って炬燵に五分位入って話を交している中に、外に誰もいないので川村すなをやってやろうという気持になった。」(東地二の二―四五五丁)旨の内容に変わり、

(3)  さらに三月一七日付検調では、強姦の犯意が生じた時期については右(2)とほぼ同一内容であるが、川村すな方に赴いた理由については、「里村商店を出た時附近に長内義昭が居りましたので、その兄の芳春が川村すな方へ行っているかも知れないと思い川村すな方へ足を向けた。」(東地二の二―四六七丁裏~四六八丁)旨の内容に変化している。

右記載したところから明らかなように、当初は強姦の犯意のもとに川村すな方に行ったとしていたが、その後は雑談中にかかる犯意が生じたとし、その場合でも、はじめは川村すな方へ行ったことがあるから遊びに赴いたとしており、それが次には長内義昭が里村商店に居たので、同人の兄長内芳春が川村すな方に居ると思って赴いた旨変化し、供述内容にかなりの動揺が認められる。しかも変更後の供述のうち、まず被害者方へ遊びに赴いたとする点については、長内芳春の二七・三・二〇付検調及び長内義昭の二七・二・二七付員調(東地二の三―一九丁、二の五―一三五丁)によると、なるほど被告人が二月初め頃と二月二〇日頃の二度にわたり被害者方へ風呂の修理及び入浴のために出入りしたことはあるものの、その際はいずれも被害者の甥にあたる長内芳春或いは長内義昭と一緒であり、特に二月二〇日頃の入浴の際には、被害者と顔を合わせることなくその留守中に長内芳春と二人で入浴していたにすぎず、日頃被告人が一人で被害者方へ出入りしていたとする事情は全く窺われないところであって、このように日常往き来のない五七才になる被害者のもとに殊更遊びに赴くというのはいささか不自然である。そして長内芳春が被害者方へ行っているかも知れないと思った、との点についても、里村隆(二七・三・三付)及び長内義昭(二七・三・二付)の各員調(東地二の五―一一六丁裏・一四四丁)によると、犯行当日の夕方、確かに被告人が里村商店前で右同人らと顔を合わせていることは認められるが、しかしその際被告人は長内義昭に対し「随分遅くまで頑張るな」と声をかけたのみで、同人の兄長内芳春の居所などについて別段尋ねるようなことはしていなかったのであり、さらに被告人自身、当時被害者方に泊りに行っていたのは義昭と昭雄の二人であると思っていた(被告人の二七・三・二二付検調・東地二の二―四七六丁裏~四七七丁)にすぎないのであるから、里村商店のところで長内義昭にあったことから、なぜその兄長内芳春が被害者方に居ると思ったかについては判然とせず、理解に苦しむところであって、これにつき甚だ不自然な感を否めないところである。

(二) 犯行態様

(1)  三月四日付員調では、「私は姦淫したあと、顔を知られてしまったのであとで何か起ると大変だと思い其の附近にあった紐の様なもので枕元の方に行き、被害者の首にかけ後より両手で引張り絞めた。」(東地二の二―四三九丁裏以下)旨の内容であったのが、

(2)  その後三月五日付員調では、「隣りの部屋の布団に寝せ何にもあばれませんでしたが、叫ばれたり、騒がれたりすると困ると思って私の体を川村すなの上に覆いかぶせて、私の両手をのばして川村すなの着ている着物の一番上の方一枚を口のすぐ下で両方より上に絞めあげた。」としたうえ、「その後、私は女の足元にズボンと袴下を一緒に脱ぎ、姦淫した。」(東地二の二―四四五丁裏~四四六丁)旨の内容に変り、

(3)  さらに三月八日付員調、三月一七日付検調では、被害者を絞頸した後にズボンを脱ぎ姦淫した、としているところは右(2)とほぼ同様であるが、姦淫前の状況につき、「被害者が手足をバタバタやって暴れますので自由にならず、女の上に重なり両手で着ている着物の襟をとって絞めた。」(東地二の二―四五七丁裏・四六九丁裏以下)旨の内容に変わっている。

右記載から明らかなように、自白後の供述であるから、犯人ならば、およそ間違えるはずがないと思われる絞頸の方法、姦淫と絞頸の先後、姦淫時における被害者の抵抗の有無等の事項について供述自体が変遷し、矛盾していることが認められる。

(三) 胸部(内出血)及び顔面部の創傷

(1)  三月四日付員調では、「私が川村すなの胸の辺りを右手拳で押したら後ろに転んでいきました。」としたうえ、続けて「私は川村すなの後より両手をすなの腋下に入れ、抱く様にして障子を開けて床の敷いてある次の部屋に引き入れた。」(東地二の二―四三八丁)旨の内容であり、そこでは別段顔面部創傷の原因に関する供述記載はなく、

(2)  その後三月五日付員調でも、川村すなの腋下に両手を入れ抱く様にして隣室に運び入れた、とする点は右(1)とほぼ同一内容で、やはり顔面部創傷の原因に関する供述記載はなく、ただ胸部に対する打撃の点について、「私は右手拳で余り強くなく被害者の胸の真中辺りを押したら後ろの方に横に転んだ。」(東地二の二―四四四丁裏~四四五丁裏)旨の内容に変わり、

(3)  さらに三月八日付員調、三月一七日付検調では、「私は右手拳で被害者の右胸のあたりを一回どんと突きました。」としたうえ、「後から女の両腋へ手を入れ胸に手をまわし抱きかかえて寝床に運んだ。運ぶ途中すなの顔か頭かはっきりしませんが障子の木にぶつかったようでした。また前に炬燵のところで胸をつき転がしたときにも頭か顔か分りませんでしたがどこかにぶつけたような気がします。」(東地二の二―四五六丁~四五七丁・四六九丁)旨の内容に変わっている。

右記載したところから明らかなように、まず顔面部創傷の原因に関する内容については、被告人の三月八日付員調においてはじめて具体的に述べられているところであって、これより以前の三月四日付・五日付各員調においては、被告人が自白したうえ、犯行態様及びその前後の行動等につき詳細に供述しているにもかかわらず、かかる重要事実について何ら言及されておらず、いささか不自然な点と言える。そして胸部打撃の部位・程度についても、当初いずれも漠然としていたものが、取調べの回数を重ねるうちに、打撃部位が「胸の辺り」から「胸の真中」となり、さらに「右胸」と変更し、また打撃の程度も「右手拳で押した」から「余り強くなく押した」となり、さらに「一回どんと突いた」と変遷しているところである。

ところで、被告人を直接取り調べた工藤(旧姓梅木)良男及び三浦永作の他、太田猛などの東地裁各証人調書(東地一の二―二一五丁裏・二八六丁。三一二丁)によると、すでに昭和二七年二月二七日に被害者を死体解剖した時点において、被害者の胸部内出血について問題となり、解剖に臨場していた右梅木良男及び三浦永作をはじめとする捜査員らは、解剖にあたっていた赤石鑑定人からその原因につき、「生前に、何か衝撃を受けた傷である」旨説明を受けていたことから、犯行当時被害者が胸を突かれていた、との見方をとっていたことが窺われ、かかる見解にそって無意識的或いは意識的に誘導的示唆を交えて被告人を取り調べた結果、前記のような供述の変更が生じたものと推察されなくはない。

(四) 以上要するに、被告人の自白内容のうち、強姦の犯意形成時期・犯行の態様及び犯行前後の行動などの核心部分については、供述が一貫せず変転を重ね、矛盾・不自然な点が見られるのであって、供述全体の信用性に影響を与える要素の存在を否定するわけにはいかない。

2 頸部・胸部の創傷に対する適合性について

被害者の頸部・胸部及び顔面部に認められる創傷と被告人及び長内芳春の各供述にかかる加害手段との適合性に関する鑑定所見としては、古田鑑定書、上野第一・第三鑑定書、赤石第五鑑定書、古田供述、上野第一・第四供述、赤石第四・第六供述などがあり、右各鑑定書はいずれも被害者の死体解剖検査を記載した赤石第二鑑定書及び強姦強盗殺人事件現場写真記録、被告人及び長内芳春の捜査官に対する各供述調書などを資料とした書面鑑定で、いずれも「創傷の成傷原因として被告人及び長内芳春の各供述する加害手段のうち、いずれがより適合するか」との観点を主軸として考察を加えており、古田鑑定人は被告人供述に対し、赤石、上野両鑑定人は長内芳春供述に対し、それぞれより適合性を認めるものである。ここでは主として信憑性判断につき特に問題となる頸部・胸部の創傷に関し、右両供述の適合性を検討する。

(一)  頸部創傷について

(1)  創傷の位置・状況

赤石第二鑑定書によると、次のとおりである。

(A)「甲状軟骨突起部の左方〇・五センチメートルより略水平に正中線を越えて右方に走り、正中より右方約一横指径の所より約五・〇センチメートル部分は極く軽く上方に凸湾し、さらに右後方に約六・五センチメートルで側頸部に終る長さ一三・〇センチメートル、巾は正中部で約一・〇センチメートル、湾曲部で約〇・八センチメートル、側頸部で約一・〇乃至一・三センチメートルの帯状の表皮剥脱」があり、その状態は「湾曲部は固く革皮様化し暗赤褐色調が強く、上面には粟粒大位の広さの剥離せる上皮の小片が処々に残有付着」となっていた(鑑定書表示(ニ)の創傷)、また、(B)「左頸部で左鎖骨上部に右上より左下方に走る長さ約〇・五センチメートル乃至約三・五センチメートル、巾約〇・一センチメートルの直線状の六本の表皮剥脱」があった(同表示(ヘ)の創傷)、さらに、(C)「前頸部で甲状軟骨突起部の下左方約一・八センチメートルの所に表皮化した約小豆粒大の表皮剥脱」があった(同表示(ホ)の創傷)。

(2)  成傷原因に関する供述内容

(イ)  被告人の前記創傷に対応する供述内容は、前記1の(二)に示したとおりで、当初は仰向けに寝ている被害者の首に紐様のものをかけ、後より両手で引張ったとの絞頸方法を述べているが、その後供述内容を変更し、被害者の着衣の襟を索条とし、両手で襟をつかみ口のすぐ下から上方に絞め上げた、或いは両手で襟をとってギューと首を絞めたとする絞頸方法を供述している。

(ロ)  長内芳春は、この点に関して、「長さ一メートル位、巾二五センチメートル位のネルのマフラーを両はじに持って輪を作るようにして針仕事をしている被害者の後からアゴの下にかけてその両はじを力一杯に引張った。約三、四分位絞めた。」(四一・四・八付員調・東地二の六―一〇四丁)旨、或いは「マフラーの両端を両手に掴んで何も知らない被害者の背後から輪を作るようにしていきなりあご下にひっかけ、そのまま両手を交差させるように逆方向に引き、被害者の肩先で両手を押えつけながら力一杯絞め上げると(被害者はうめき声を立て)仕立物の手を離して首の両側に手を当てもがくような格好をした。」(四一・五・三一付検調(B)・東地二の六―一九六丁)旨の絞頸方法を供述している。そして、右マフラーは犯行翌日、自宅の裏の川に投げ捨てた旨供述する(四一・四・八付員調、同五・三一付検調(A)・東地二の六―一〇六丁・一一八丁・一六一丁)。

(3)  考察

(イ)  被告人供述について

まず、変更前の絞頸方法、すなわち、「仰臥している被害者の首に紐様のものをかけ後より両手で引張った」との場合については、上野鑑定人は、右方法は定型的縊死の状況と大差ないとし、この方法によるときは、索条が上(頭部)方向に作用すると考えられるから、索痕の性状及び方向も水平方向ではなく、少なくとも垂直方向に生じるべきものであるのに、(Ⅰ)実際の本件(ニ)の創傷(索溝)は水平方向であること、(Ⅱ)右側頸部にかぎられていること、(Ⅲ)左頸部では着衣の襟などの上からの圧迫のため、そこに索溝が生じないと仮定しても、耳の後方部には左右とも索溝らしいものが生じていないことから、創傷との適合性を肯定する余地がないことを明らかにしており(上野第一鑑定書、上野第四供述・再審三―八〇二丁裏・八五三丁各以下)、赤石、古田両鑑定人とも、右と同様の結論である(赤石第五鑑定書、古田供述・再審四―一一四六丁裏)。

次に、変更後の絞頸方法、すなわち「被害者の着物の襟を両手でつかみ絞め上げた」との場合については、古田鑑定人が創傷との適合性を肯定する見解を示しており、同鑑定書(総括的考察の項・東高三―七六八丁以下)において、「頸部(ニ)の創傷(索溝)は被害者の着衣(毛布製上張り)の右襟で、(ホ)の創傷は被告人の左拇指か被害者の右手の中指か環指で生じ、(ヘ)の創傷は爪痕で被害者の左手により生じる可能性が考えられる。」と説明しているのである。

しかしながら、この見解に対しては、上野鑑定人の指摘する問題点、すなわち、(Ⅰ)「被告人の供述する絞頸方法は左右に引き絞るよりも『上に絞めあげた』とあるから(ニ)の創傷のように上縁・下縁ともに境界明瞭な規則的細長な索溝をつくることはできず、索溝も正中部では顎の直下に存すべき筈である。」また、(Ⅱ)「両手で襟をつかみ緊めた場合には索溝の発生箇所の下は着物で覆われているので、被害者の手による防禦損傷として(ヘ)創傷の爪痕が生じる筈はない。」との点(上野第一、第三鑑定書)など、被告人の供述する絞頸方法では成傷原因を説明することの困難な事由が存するものと言わざるを得ない。

もっとも、右問題となる事由につき、古田鑑定人は棄却審における証人尋問の際に一応の説明を加えているところではあるが、次のとおり、これもにわかに採用できない。

まず右(Ⅰ)の点については、「えり全体が並行的に皮膚に全体的な作用をすれば困難であるが、襟の端が来れば紐のような作用をするわけであるから、それならば、(右(ニ)の成傷を)別に否定することはできないと思う。」(古田供述・再審四―一二三四丁)と述べているにすぎず、必ずしも(ニ)の創傷におけるような規則的細長な索溝の生ずる可能性を積極的に肯定する趣旨とまでは解しがたいし、むしろ、「襟絞めの場合には着物が平等の巾の作用面を持つように皮膚に接し、かつ、側頸部の後ろの方まで規則正しく均等な巾の索溝を作ることは非常にむずかしい。」旨の上野第四供述(再審三―八一〇丁裏)は十分納得できるものである。

この点は、赤石鑑定人も、「毛布製上張りの襟によるとすると、(ニ)の索溝は明瞭であるから、襟に一センチメートル位の折目がなければならない。折目がなければ境界がもっと移行的である。」趣旨を供述し(赤石第六供述・再審二―六二八丁)、古田鑑定人説明の襟絞めによる可能性を疑問視しているのである。

次に、(Ⅱ)の点に関する古田鑑定人の説明内容は、「被害者の指が左の襟をつかむように首の間に自分の指を入れたとした場合には、襟をしめられながらも下へ引っぱるということになれば(ヘ)の創傷はできる。」(古田供述・再審四―一一八六丁)とするところではあるが、しかし問題となる(ヘ)の創傷のうちには、赤石第二鑑定書によれば右上方から左下方に長さ三・五センチメートルにも達する直線状の表皮剥脱が認められるから、右説明に従うと、左襟が三・五センチメートル程度下方へ移動することが可能であったものとしなければならないこととなる。

しかしながら、犯行当時における被告人及び被害者の体力の格差は、その年令及び性別などの相違からみて、極めて著しいものであったことは想像に難くないこと、そして被告人の供述する絞頸方法の場合では、絞頸時において襟を押し上げるような恰好であるから、その力が特に上方に作用していたこと、さらに被害者が絞頸されまいとして襟を下げようとするのは左手であるのに対して、その襟をもって絞頸する被告人においては右手となること、などの事情からすれば、右のような左襟の移動はおよそ考え難いところである。

したがって、古田鑑定人の右各説明は、未だ十分首肯できるものとはいいがたいものである。

要するに、被告人の供述する変更後の絞頸方法についても頸部創傷との関係で疑問の余地があり、たやすく適合性を肯定し難いところである。

(ロ)  長内芳春の供述について

上野、赤石両鑑定人は、いずれも、(ニ)の創傷が境界明瞭な規則的細長な索溝であること、(ヘ)の創傷が被害者の手による防禦創であることなどを考慮したうえ、創傷との適合性を肯定している。

上野第一鑑定書は、「長内の供述する絞頸方法は『マフラーの両はじを手に持って』つくった輪を被害者の首にかけ、この両手をすばやく被害者の頸部で左右に交叉させてこれを左右に押し出すようにすることと解釈し」、「この際加害者(長内)の左手はただ単に索条(マフラー)の端を握り、その握った拳を被害者の背面又は右肩の辺に固定させておき、右手により強大な力を加えて索条(マフラー)を握った拳を被害者の背面正中から被害者の左肩又はこれを越えて、更に外方に突き出すようにして絞頸を効果的に行なった場合には索条の右半分(すなわち右手に続く索条の半分)においてのみ索条と被害者の皮膚との間に移動擦過がおこり、ここに著名な表皮剥脱を形成する。」とし、「若し長内の供述する絞頸方法が上記の様なものであったとすれば、その絞頸方法は赤石第二鑑定書に記載された頸部にみられる(ニ)の創傷と一致することとなる。」とし、さらに絞頸に際して、「被害者が右側を下にして前方に倒れたときには、被害者の左手の方がより大きな自由をもつものであり左手による防禦がより有効に行なわれ、本件被害者の左側頸部にある(ホ)・(ヘ)等爪痕らしい損傷はこのようにして発生したものとみることができる。」と説明する(東地二の六―六六丁~六九丁)ものである。上野第一、第四各供述も同趣旨である(東地一の四―二三九丁~二四〇丁、再審三―八〇六丁~八〇八丁)。

ところで、右絞頸方法は、なんら特異なものでないことが窺われるし(上野第一供述・東地一の四―二三九丁裏)、長内芳春の捜査官に対する各供述調書では、右のような絞頸方法によったかどうか必ずしも明確には記述されていないものの、同人の取調べを担当した当時の検察官山崎恒幸の供述(同人の東地裁証人調書・東地一の七―九四丁・一一〇丁~一一一丁、当審供述・当審四―五〇二丁~五〇三丁)によると、長内芳春は殺害についてほぼ右のような絞頸の仕方を動作で示しながら、同検察官に供述していたことが明らかである。

また、被害者の左側頸部にはなんら創傷或いは索溝が認められないことについても、同部分の皮膚とマフラーとの間における着衣の襟等の介在を前提とすれば、右絞頸方法との間に矛盾なく説明がつくところ(上野第一鑑定書第四節二・東地二の六―七三丁以下、上野第四供述・再審三―八二一丁、赤石第一供述・東地二の二―三八四丁)、強姦強盗殺人被疑事件現場写真記録(東地二の二―四一一丁裏以下)から明らかなように、犯行当時すなが上半身において七枚の衣類をまとい、やや着ぶくれた状態にあり、その一番上の衣類が着方にかなり余裕の出来る毛布製上張りであって、動作如何によっては、同上張りが同女の左側頸部に達し、マフラーと皮膚との間に介在することは十分ありうることが推認できるから、右前提は可能なものとして是認できるところである。

さらに、マフラーにより(ニ)の創傷のような硬性索溝を生成しうるかについては、上野鑑定人がそのような索条自体の表面が軟らかいものであっても、そのひき絞り具合、皮膚との擦過の程度如何によっては右生成が可能であるとし、長内芳春が犯行に使用したとするマフラーとその厚さにおいてほぼ同じであると自ら説明している(同人の四二・二・二一付検調・東地二の六―二一一丁)ネル製のマフラー(当裁判所昭和五一年押第五一号の一、東地裁昭和四二年押第六八六号の一)を直接みたうえで、これによって(ニ)の索溝の生成は明らかに可能性があるというのであり(上野第三鑑定書、上野第一・第四供述・東地一の四―二三八丁裏~二三九丁、再審三―八三六丁裏~八三七丁)、直接死体を剖検した赤石鑑定人においても、右ネル製のマフラー自体によって右索溝が生成されることを否定してはいないのである(赤石第四供述・東地一の四―一六〇丁以下)。

そうすると、上野鑑定人の鑑定所見は、十分に首肯できるものといわなければならない。

また、赤石第五鑑定書は、「マフラーと右側頸部皮膚との間に毛布製上張りの襟が介在したことを前提条件とすれば、長内芳春の絞頸方法は死体所見とよく一致する。」というものであるが、先に述べたとおり、同鑑定人は、ネルのマフラー自体による(ニ)の創傷の生成を否定するものでないから、右鑑定所見は、毛布製上張りの介在を最良の条件と考えているにすぎず、なんら上野鑑定人の前記所見に矛盾するものではなく、むしろこれに沿うものといえる。

なお、赤石鑑定人が(ニ)の創傷を生成するための最良条件と考えている「襟の介在」については、上野、古田両鑑定において、かかる場合(ニ)の創傷のような著明な索溝を生成するほど襟の擦過が側頸部に生じうるかどうか疑問であるとしている(上野第四供述・再審三―七九五丁、古田供述・再審四―一一五一丁裏)が、右のように、上野鑑定所見によって、長内芳春供述の適合性を肯認できる以上、これをいずれに解するかによって結論に差異を生じない。

他方、古田鑑定人は、次のとおり、長内芳春の供述する成傷原因についての説明は、不適当であるとの所見を示している。すなわち、

(Ⅰ) 「マフラーを直接首にかけて絞頸したときには、索溝が湾曲にできる可能性が殆んどない。直線になる筈である。」、「凸湾部における粟粒大の表皮剥離の残存付着は、まずできない。」(古田供述・再審四―一一四六丁裏~一一四八丁)。

(Ⅱ) (ホ)・(ヘ)の創傷(爪痕)は被害者の爪によって生じうるが、無警戒で針仕事をしていた被害者が、背後からマフラーを顎の下にかけられていきなり絞頸されたとき、針仕事の手を離してマフラーのところに手を持っていくような防禦手段をとりうるかどうか疑問であり、ましてマフラーの下にまで指が入って、その爪を移動させることは非常に困難であるから、適合性にやや問題がある(古田鑑定書・東高三―七六九丁以下、古田供述・再審四―一一八六丁裏~一一八九丁)。

以上のとおりの疑問を指摘するのである。

しかしながら、まず右(Ⅰ)については、前記((1)の(A))のとおり、索溝は、「極く軽く上方に凸湾している」程度にすぎないところ、索溝の形状は、マフラーの絞り方如何、引張る力の方向(赤石鑑定人においても、索溝の形状については、力の作用方向を重視している。赤石第六供述・再審二―五七七丁裏)及びマフラーと被害者の頸部との接触の状態によって影響を受けるものと考えられるのであり、したがって、上野鑑定人が、「一部で軽い凸湾という程度の変異があるとしても、これは絞頸を受けた際の被害者の首の傾き等を考慮に入れると殆んど問題にすべき程のものでない。」(上野第一鑑定書・東地二の六―四九丁裏)と述べているのは、十分に首肯できるし、また、ネルのマフラーによる「表皮剥離」を伴うような創傷の可能性に関しては、古田鑑定人において、上野、赤石両鑑定人の前記首肯しうる所見に疑念を懐かせるにたりる合理的理由の説明をなんら付加しないところであるから、右指摘はいずれも当を得ないものといわなければならない。

次に、(Ⅱ)についてであるが、手を索条のマフラーのところに持っていくような防禦手段の困難性に関しては、古田供述を精査しても、単に、具体的な実験方法が必ずしも明らかでない、非専門家の一実験例を参考とする(古田供述・再審四―一一八七丁)ほか、なんら納得しうべき理由を示すことがないし、(ホ)・(ヘ)の爪痕の成傷原因についても、同鑑定人が指摘するところの、索条の下に被害者の手が入ることを前提とする必要はないのである。すなわち、右両創傷は、被害者が索条を除去しようとして失敗に終った際に生じたものと十分考えられるところ、いずれも(ニ)の索溝を左側頸部に延長した線の下方に位置しているのであるから、これは被害者の指が索条の下をくぐって皮膚を損傷したのではなく、索条をとび越えて自己の皮膚を傷つけたものと推察できる(上野第三鑑定書第四章三・再審四―一三四四丁裏、上野第四供述・再審三―八一六丁)。したがって、この点に関しても古田鑑定人の指摘は妥当性を欠く。

以上のとおりであるから、上野、赤石両鑑定人の鑑定所見には合理性があり、したがって、長内芳春供述の絞頸方法と創傷との間に適合性を肯定できる。

(二) 胸部創傷について

(1)  創傷の位置・状況

赤石第二鑑定書によれば、被害者の「右大胸筋において、右第二肋骨の胸骨附着部よりその筋繊維の走向に右腋窩前極部まで、長さ約一三センチメートル、巾約〇・五センチメートルの線状の出血(同鑑定書表示(ト)の創傷)」があったことが認められる。

(2)  成傷原因に関する供述内容

(イ)  被告人の右創傷に対応する供述の要旨は、前記1の(三)に示したとおり、「右手の拳骨で被害者の右胸あたり(或いは胸のあたり又は胸の真中辺)を一回どんと突いたら(或いは押した又は余り強くなく押した)、被害者は後に仰向けに転んだ」というほか、右のような行動の後、隣の寝室に運び入れて姦淫又は絞頸した際に、「上から覆いかぶさり、両手を上から押えた。」、「上から覆いかぶさって動かないようにした。」、「女の上に重なった。」などというものである(前記1の(三)掲記の捜査官に対する各供述調書)。

(ロ)  長内芳春の供述の要旨は、「伯母は四畳半の部屋の炉端の西側に座って針仕事をしており、その左側に針箱があった。伯母の後から首を締めて、締めながら針箱の置いてある方向に倒した。倒れたのを後から押しつける様にして締めつけたので伯母の左額が畳にこすれ、そのあとが残っていた。」(四一・四・八付員調・東地二の六―一〇三丁裏~一〇四丁裏・一〇九丁裏)、「針箱は確か伯母の左側にあったと思う。そして伯母を左側に倒したと思うが、とに角その針箱の方に倒した。しかし針箱に当ったかどうかよく判らない。」(四二・二・二一付検調・東地二の六―二〇七丁)というものである。

(3)  考察

(イ)  被告人供述について

(ト)の創傷の生成は、その長さ、巾に相当する作用面を有する鈍体によって発生することは勿論である(この点、各鑑定人に異論はない)が、本件事案においては、出血の範囲よりも短い鈍体、すなわち被告人の供述するような手拳(これによる直接の出血は、こぶしの尖端を中心とした、せいぜい卵大位の範囲に限局される。上野第一供述・東地一の四―二二九丁)による胸部への打撲或いは覆いかぶさった際の上体への圧迫などから生ずる可能性如何が問題となる。

これにつき、古田鑑定人は、被告人の供述するように、「手拳によって突くとか」、「姦淫又は絞頸の際に上から覆いかぶさったりしたとき、右胸を強く圧迫し、とくに絞頸時には被告人の左前腕が右第二肋骨部を強く圧迫するような姿勢になりうると考えられ、このときに生じる可能性が考えられる。」(古田鑑定書四節一項3・東高三―七七〇丁以下)とし、右の手拳によって生ずるというのは、「打撲があってから死亡するまで時間的経過があったために、その打撲箇所からの出血が浸潤して右一三センチの長さに広がった場合である。」(古田供述、再審四―一二〇九丁・一二二九丁)として、被告人供述の適合性を肯定するものである。

しかしながら、右鑑定所見には、次のような疑念を免れない。すなわち

(Ⅰ) 被告人供述によると、被害者は手拳で突かれてからも、絞頸されるまで若干時間的経過があったのであるから、かかる場合、未だ血圧の低下が著しくなく局所的出血が筋繊維に浸潤することがあり得る(赤石、上野両鑑定人においても、かかる場合における出血の浸潤の可能性を肯定する。赤石第六供述・再審二―五四三丁、上野第一供述・東地一の四―二三一丁裏~二三二丁)としても、そのような浸潤は、赤石鑑定人が指摘するように、右創傷の線状出血の状態、すなわち「左右両端とも同程度で」(赤石第四供述・東地一の四―一五七丁裏)、かつ「その巾もほとんど同じ」(赤石第六供述・再審二―五四三丁)といった形状となりうるかどうか、疑問であり、特に同鑑定人が、「被告人供述のような狭範囲の局部、単発的外力作用(手拳により一回突いたことを指す)ではかかる線状出血は生じ得ないもの」とし、「このような長さ一三センチもの直線的な出血をきたす成傷器は、少くともそれだけの長さを有する直線的稜角のある鈍体でなければならない。」と説明している(赤石第五鑑定書第1章第2項・東地二の六―三五丁)ところは、より合理性を有するものと考えられる(なお、同鑑定人も手拳による可能性を全く否定するものでない。同第六供述・再審二―五四二丁)。

なお、赤石第二鑑定書では、右古田鑑定所見と同様に、鈍体が作用したことによる出血が筋繊維束間に浸潤したもの、としているが、同鑑定当時は、被害者の死体解剖をしたものの、右創傷についての出血源が不明でこれを深く検討したものではなく、赤石第三鑑定の際に、胸部の出血部分を撮影した写真(強姦強盗殺人被疑事件現場写真記録番号20の写真・東地二の二―四一六丁裏)をもとに新たに検討を加え、主として右指摘の出血の形状の点から、所見を右のように訂正したものである(赤石第四供述・東地一の四―一五七丁、同第六供述・再審二―五四二丁裏~五四三丁裏)。この点につき、被害者の死体解剖に立会した捜査官三浦永作は、当審において、「二、三センチくらいの傷から血が流れているような形であった。」趣旨の供述をする(当審四―一二五丁裏)が、赤石鑑定人の「解剖時には出血源の位置或いは程度は不明であった」趣旨の供述(赤石第四供述・東地一の四―二一〇丁)に対比してとうてい措信できない。

(Ⅱ) 次いで、被告人供述のうち前腕部の圧迫によって生じうるか否かの点に関しては、上野鑑定人において、被害者が受傷時甚しく厚着をしていた(当時毛布製上張、毛糸胴着、絣上張、真綿胴着、長襦袢、コットン肌着、本ネル肌着を着用していたものである。司法警察員作成の二七・二・二六付実況見分調書・東地二の二―三九〇丁)状態にあったことを考慮すれば当該鈍器はかなりの硬度を有すべき筈であるとし、「仮令長さにおいて適合するとしても加害者又は被害者の前腕による圧迫等は、その作用面のもつ巾、硬度という点で不適格であるということになる。」(上野第一鑑定書第二章第一節四・東地二の六―四七丁)と説明しているところであって、この指摘は合理性を有するものとして是認できる。

したがって、被告人供述の(ト)の創傷の説明には疑問が存し、供述と創傷との適合性をたやすく肯定するわけにはいかない。

(ロ)  長内芳春の供述について

上野、赤石両鑑定人は、いずれも、(ト)の創傷は、前記のように伯母の後方からマフラーで絞頸し、実況見分時に現場に存在した針箱の方に倒した際に、その稜角によって生成されたもので、他の顔面の創傷との関係でも矛盾を生じないとする(上野第一鑑定書、同第一・第四各供述・東地一の四―二四四丁、再審三―八五七丁裏、赤石第五鑑定書、同第四供述・東地一の四―一八八丁裏~一八九丁)。古田鑑定人も、前記のように手拳等による可能性が強いとするものの、右針箱に強くあたるとか、押しつける状況であれば生成の可能性を否定するものではない(古田供述・再審四―一一九三丁裏)。

しかして、強姦強盗殺人被疑事件現場写真記録番号8の写真(東地二の四―四一〇丁)、鹿内卯市の東地裁証人調書(東地一の七―一二丁)、長内石蔵の二七・三・六付員調及び検調、間山仁太郎、宮崎コヨ、龝元武夫の各員調、長内義昭の二七・三・二七付員調(東地二の五―五六丁・六五丁・八五丁・九二丁裏・一〇六丁・一三一丁)によると、本件犯行発見当初四畳半の部屋には、被害者が日常使用していた針箱が蓋を取られ本体の底に裏側から重ねられた状態で、乱雑になった靴下とか衣類、布切れなどと一緒に炬燵付近に放置されていたことが明らかであり、したがって、犯行当時、長内芳春の供述するように被害者が炬燵で針仕事をしていた(或いはしようとしていた)際(特に、犯行現場に駆けつけた間山仁太郎は、その時の状況からして、被害者が何かを縫いかけていた模様であると感じた旨供述している。同人の東地裁証人調書・東地一の三―一七八丁裏)、蓋をとられ重ねられていた状態の針箱が被害者の身近なところに置かれていたものとみることができ、被害者を前の方に倒した時に胸部がそれに衝突した事態が十分考えられるところであり、かつ右針箱の形状(厚さ〇・七センチメートルの板で作られ、蓋の部分の縦・横・高さはそれぞれ二四・三、一八・二、六・八センチメートル、本体部分の縦・横・高さはそれぞれ二二・五、一六・五、六・四センチメートルの長方形をしていることにつき、川村芳男作成の任意提出書、領置調書、川村芳男の東地裁証人調書、押収してある針箱((昭和五一年押五一号の四))・東地二の六―八九丁・九〇丁、一の六―一六〇丁裏)と創傷生起との間に不一致が存在しないのであるから、右各鑑定所見はいずれも首肯できるところである。

なお、前掲現場写真記録によると、針箱は犯行翌日に行なわれた実況見分当時、炬燵からかなり離れ、東側玄関近くに存在している状況が看取できるが、鹿内卯市及び間山仁太郎の東地裁各証人調書(東地一の七―二四丁~二五丁裏、一の三―一七二丁裏~一七三丁)によると、捜査官が到着する前に、被害者宅に駆けつけた者達によって一旦四畳半の間が片付けられたのち、実況見分の際に復元されたものであり、それが必ずしも発見当時の状態どおりに行なわれたものではないことが窺われるから、右現場写真記録は犯行発見時における針箱の正確な位置を示したものとはいい難い。

ところで、長内芳春の供述は、一貫して「伯母を左側に倒した」とする(供述の録音については、録音テープ第二、第五巻各表、各録音テープ録取書・東地二の七―六六丁、二の八―一五四丁~一五五丁)ところ、赤石第五鑑定書は、右供述に沿い、「左側に倒れても、右肩が前に出るようにして倒れた場合であれば、(ト)の創傷はよく説明される。」(東地二の六―三二丁裏)というのであるが、上野第一鑑定書では、被害者の右顔面部における創傷との関連づけもあって胸部内出血の成傷条件として「右側に倒して針箱に衝突した」場合を前提としている(東地二の六―六八丁~六九丁)。そこで右上野鑑定書は、長内芳春の右供述及び赤石鑑定と一見矛盾するようであるが、同鑑定書の前提は、上野第一、第四供述(東地一の四―二四五丁、再審三―八五八丁)における説明に徴すると、成傷の最良条件を示したものであって、左側に倒すことによっても生成は可能であるとするものであるから、これらに相反するものではない。

以上要するに、長内芳春の供述については創傷との関係を矛盾なく説明できるわけであるから、両者の適合性を肯定して差支えない。

3 姦淫の状況に対する適合性について

(一) 姦淫行為に関する供述内容

(1)  被告人はこの点に関して、「私は布団の後ろの方にズボンと袴下を脱いで越中ふんどし一つで川村すなのまんじゅう(局部の意)に私の金玉を入れて川村すなの体に覆いかぶさりました。金玉を中に入れて三、四回動かしたら私は気を出してしまいました。」(二七・三・四付員調・東地二の二―四三九丁)、「私はすなの陰部に自分の金玉を入れて五、六回位抜き差したら気分が出て精液が出て終ったのであります。」(同八付員調・東地二の二―四五九丁裏)、「私は左手で女の首にしがみつき顔を女の顔に落し、右手で立っている金玉(陰莖の意)を握り、女のまんじゅうへさし込もうとしました。しかし仲々入らず二、三回してやっと中に入りました。中はあまりかたくなく奥行きがあり根元まで入りました。中は温かでありました。私は五、六回抜差しているうちに気分が出てまんじゅうの中へ精液を出してしまいました。」(二七・三・一七付検調・東地二の二―四七〇丁裏~四七一丁)などとするものであって、右内容から明らかなように被害者の陰部に陰莖を挿入したうえ膣内射精をしたことを明確に述べているところである。

なお、姦淫後の行動について、「やってからすぐ附近にあった布切れの様なもので陰莖を拭き、その布切れを布団の何処かに隠したが何処かわからない。」趣旨を供述する(二七・三・五付員調、同一七付検調・東地二の二―四四七丁裏・四七一丁)。

(2)  長内芳春はこの点について、「陰莖を出して馬乗りになって伯母の陰部に入れようと思ったところ、陰莖が陰部にさわった時に気がついて仕舞った(精液を出すこと)のです。」(四一・四・八付員調・東地二の六―一〇六丁)、「ズボンを履いたまま陰莖を出して伯母の陰部に陰莖を入れたか入れない位のときに急に気分が出て射精してしまいました。私の精液が伯母の陰部の中やへりの方に流れ出た。」(四一・五・三一付検調(A)・東地二の六―一四七丁裏)、或いは「あのときの状況をあんまり、あわもくっていましたし、それに、今思うと、入れたような入れないような状態でもうほとんどすぐ出ちゃったんです。」と述べている(録音テープ二巻表、同テープ録取書・東地二の七―七一丁)ところであって、右内容から明らかなように、陰莖を陰部に挿入させたかどうか判然としないような早い時期に射精が終った旨供述しているところといえる。

なお、姦淫後の行動について、「精液から血液型が判明するのを防ぐためと、伯母に対する憐びんの感情から、絞頸したマフラー或いはその付近にあった古い日本手拭で伯母の陰部を拭き、さらに右手拭を長さ一寸位丸める様にして陰部の中に差し込んで拭き取り、その手拭をその辺に置いた。」趣旨の供述をしている(四一・四・八付員調、同五・三一付検調(A)・東地二の六―一〇六丁・一四七丁裏~一四八丁、録音テープ二巻表、五巻裏各テープ録取書・東地二の七―七一丁裏~七二丁・一六九丁~一七〇丁。なお、このように陰部の中まで拭いたというも、膣外射精をした精液が陰部の中の方へも流れたと感じたために行ったものにすぎないから、なんら膣内射精を推測させる供述とはみられない)。

(二) 考察

(1)  医師荻原清登作成の死体検案書、同人の原第一審及び東地裁各証人調書、工藤(旧姓梅木)良男の東地裁証人調書(東地二の一―七二丁・二四九丁裏~二五〇丁、一の三―五八丁、一の二―二三二丁裏)によると、荻原清澄が森内巡査とともに二月二六日午前中犯行現場に赴き、被害者の死体を検案し、死体の状況等から姦淫が行われたものとみて、被害者の膣内部に綿球を挿入して膣内容物を採取したうえ、これを捜査機関に渡したが、これにつき精液存否の検査が行われないままに紛失したこと、そして、同医師自身も右綿球の嗅いを嗅いだ程度で顕微鏡等により精子検査を行っていなかったことが認められる。

しかして、赤石第二鑑定書によると、翌二七日同鑑定人により解剖検査が行われたが、そこでは、死体解剖時の外部検査として「子宮鏡で膣内を観るに膣上部に汚灰白色の粘液少許あり。精液臭はない。」とされ、さらに精液検査の結果について、「本屍の膣腔より採取せる汚灰白色の粘液について顕微鏡にて精子を捜索したるに全く認められなかった。」というものであり(東地二の一―五三丁、四九丁裏)、かつ赤石第六供述(再審二―六三二丁)によると、この精液検索についてはかなり綿密な顕微鏡検査が行われていたことが窺われる。

(2)  ところで、赤石第二、第三鑑定書(東地二の一―四九丁裏・六九丁)によると遺留精液斑からは精子が発見されており、本件犯人は有精子者であると認められる(被告人も有精子者であることにつき、山沢第一鑑定書・東高二―三三六丁裏)ところ、上野鑑定人は、「もし膣内射精が、死直前あるいは死直後に行われたときには、精液は長時間膣内に滞留し腐敗により溶解又は流出するまではその証明が可能であるから、本件解剖検査のように右子宮内に残留している汚灰白色の粘液から精子が検出されない以上、犯人による膣内射精の行為がなかったとみられるものである。」趣旨の理由を挙げて、長内芳春供述は犯跡に適合するが、被告人供述の適合性は疑問である旨鑑定し(上野第一鑑定書・東地二の六―七五丁~七六丁裏、同第三鑑定書・再審四―一三四一丁裏)、赤石鑑定も同趣旨の鑑定をしている(赤石第五鑑定書・東地二の六―二六丁裏~二九丁)。

これに対し、古田鑑定人は、「赤石鑑定以前に膣内容物が採取されたことによって精子が証明されなかった疑いもある。」(古田鑑定書・東高三―七七七丁)とか、「綿球で膣内の内容物を採取した場合、なお精液が残る可能性があると考えられるとしても、時間の経過により精子の発見が困難となることを考慮しなければならない。」(古田供述・再審四―一二四五丁・一二六九丁裏)との趣旨から、膣内射精の否定を疑問視する。

しかしながら、前記荻原医師は被害者の腟内容物を完全に拭い取るほどの特別な採取方法をとったわけでなく(同人の東地裁証人調書・東地一の三―五八丁)、赤石鑑定人による解剖時に存在した膣内容物は、被害者の生存中に分泌されて右採取に堪えて残存していたものである(赤石第六供述・再審二―六三四丁裏~六三五丁)し、かつ、かかる残溜物については時間の経過によって精子の発見が困難になるというのも、被害者が生存している場合についてのみいえることであって、本件事案には考え難いところである(上野第三鑑定書・再審四―一三五五丁裏~一三五六丁裏。右古田供述も生存中の場合の説明にすぎない)から、古田鑑定人の指摘する右疑問にはにわかに賛同し難い。

次に、古田鑑定人は、被害者に対する精液付着状況(前記第五の三1の(一)参照)から膣外射精の供述には矛盾がある旨説明する(古田鑑定書・東高三―七七七丁)が、長内芳春供述のように、被害者に付着した精液をマフラー等によって拭い去れば、右のような状況であっても必ずしも不自然とはいい難いと考えられる(上野第三鑑定書・再審四―一三四〇丁~一三四二丁裏)。

なお、実況見分時に死体の右肩部分の毛布の下から発見された折鶴模様入り日本手拭(原第一審証一四号)は、おおよそ約二倍拇指頭面大の広さにわたって被害者の血液型と一致するB型の粘液物質の乾燥に伴なうと考えられる皺があり、かつ、主としてこの手拭の長径方向に少くとも四条の放射線状の皺が存するところ(司法警察員作成の二七・二・二六付実況見分調書・東地二の二―三九一丁裏、赤石第二、第三鑑定書・東地二の一―四五丁裏・六七丁)、この状態は、姦淫後「手拭を丸めて陰部の入口に差し込んだ」旨の長内芳春供述に照応する如く考えられるのであって(赤石第五鑑定書・東地二の六―二六丁裏、上野第一鑑定書。同記録―七六丁裏)、これは、右供述の信憑性判断について留意すべき点である。

(3)  要するに、姦淫の状況についても、被告人供述はその適合性について多分に疑問が存し、他方長内芳春供述についてはこれを肯定することができる。

4 犯行現場の状況(被害者の依類の状況等)に対する適合性について

この点は、当時の捜査機関において明白な事柄であるから、被告人自白の信憑性判断の資料としては容易にその適合した内容を供述することの困難な前記の創傷とか姦淫の状況ほど重要性を有するものとはいい難いにしても、やはり無視できないものであり、ことに長内芳春の自白の問題点でもあるから、以下に検討することとする。

(一)  被害者の衣類の状況等

司法警察員作成の二七・二・二六付実況見分調書(東地二の二―三八九丁~三九二丁)及び強姦強盗殺人被疑事件現場写真記録(東地二の二―四〇九丁裏以下)、工藤(旧姓梅木)良男、宮崎コヨ、長内義昭らの原第一審及び東地裁各証人調書(東地二の一―一九三丁~一九四丁・二一五丁~二一六丁・二六五丁~二六六丁裏、一の二―一九六丁裏~一九八丁裏、一の五―一一二丁、一の三―九一丁各以下)、長内義昭の二七・二・二七付員調(東地二の五―三〇丁~一三一丁裏)などを総合すると、

(1)  本件犯行発見当時、被害者は六畳間寝室に敷かれた二組の布団のうち、同人が日常使用している布団に平素の就寝状態と同様仰臥した状態で、顔が隠れる程度に掛布団がかけられていたこと。

(2)  被害者の枕元の近くにあった座布団の上には、紐が切れ片方が裏返しになったままの浅黄のモンペ(原第一審証二号)と毛糸製靴下の片一方とが置かれてあり、掛布団及び毛布をとり除くと、被害者の腰部から右大腿部附近の右脇にも同じく毛糸製靴下の片方があったこと。

などが認められる。

(二) 衣類の状況等に関する供述内容

(イ)  被告人のこの点に対応する供述の要旨は、被害者を四畳半の部屋から寝床に運び込み絞頸した後、「あまり身体を動かさなくなってから被害者の腰の方に立ち直り、まずモンペを取ろうと被害者の腹の所の紐を両手で引張ったら紐が切れたので、モンペを下にまくり下げて脱がせると、履いていた靴下の様なものも一緒に脱げたので、それらを一緒に寝床の付近に投げ捨てて、……姦淫に及んだ。」とし、犯行後、「女をそのままにして毛布をかぶせ、その上に布団をかけて早々に逃げてきた。」とするものである(二七・三・一七付検調・東地二の二―四七〇丁~四七一丁裏。二七・三・四付、同五付、同八付各員調も同趣旨。同記録―四三九丁~四四〇丁・四四六丁裏~四四七丁・四五八丁裏~四六〇丁)。

(ロ)  長内芳春の供述の要旨は、まず、被害者を四畳半の部屋で絞頸した後、引きずるようにしながら隣室六畳間寝床に運び込んで布団に寝せたが、「引きずって伯母の布団に寝せる時、着物の裾が乱れて真白な大腿部が現われたので、急に助平根性を起し、直ぐに着物の両前を臍下辺までたくし上げて姦淫した。」とし、「モンペはしていなかった。モンペを無理に脱がせたり、その紐を切ったような記憶はない。」とするものである(四一・四・八付員調、同五・三一付(A)及び四二・二・二一付各検調・東地二の六―一〇五丁・一四七丁~一五〇丁・二〇六丁裏~二〇七丁)。

次に、犯行後の行動として、「掛布団はいつも伯母がしていたように額の辺まで掛け、髪の毛が出るようにした。そのように頭まで布団をかけたのは、日頃の伯母の習慣を知っていて、犯行が弟に気付かれないようにしようという気持もあったし、又一方、伯母の顔を見るのが怖いような可愛想なような気持も覚えたからである。」とし、「居間に行き一通り見渡すと、確か伯母が座っていた位置に座布団があり、その横の方に仕立中の女の着物が一枚置いてあったので、伯母が仕立物をやめて寝たように見せかけるため、その着物を取って食事をする座敷の東側の出窓の上に持って置いた。」と述べ(四一・五・三一付検調(A)・東地二の六―一五〇丁裏~一五四丁)、後にこれを一部変更し、「縫い物の着物は出窓の方に置いたように思うが、伯母は大概着物を枕元に脱いでおくので、或いはその辺に寝ているような風にしておくため置いたのかも知れない。」旨を供述する(四二・二・二一付検調・東地二の六―二〇七丁)ものであって、結局被害者の平素の習慣に従って、布団をその顔が隠れる程に掛けたこと、及び犯行前に被害者が縫い物をしていた衣類を犯行後に四畳半の部屋から移動させたことを供述するわけである。

(三) 考察

(イ)  被告人供述について

同供述は、前記(一)に認定した現場の状況、とくに浅黄のモンペ及び靴下の各位置及びその状況などに対比した場合、これに適合しているものと見ることができ、次のとおり、同供述の疑念とするところも、一応の説明がつかないわけではないから、その適合性を否定するほどの事由とまではいい難いものである。すなわち、

前掲強姦強盗殺人被疑事件現場写真記録番号16の写真(東地二の二―四一四丁裏)及び川村芳男の二七・三・二〇付検調(東地二の四―七〇丁裏)並びに工藤(旧姓梅木)良男、太田猛、佐藤鶴松、祐川むつの東地裁における各証人調書(東地一の二―一九七丁・三一九丁、一の三―三六五丁、一の六―八八丁)などからすると、前記浅黄のモンペは前側についている左右の紐が結ばれたまま、そのいずれか一方のつけ根が切れていたものと窺われ、右祐川むつの東地裁証人調書(東地一の六―八一丁裏・八九丁~九〇丁)によると、同モンペは通常のモンペと同様に、前側の紐が長く、後側のそれは短かくなっており、これを着用するときは、通常前側の紐は二重に、後側のそれは一重にして締めるものであったことが明らかである。しかるところ、まず、(Ⅰ)被告人は「腹の所のモンペの紐を両手で引っぱったら、それが切れた」と供述していることからすると、腹の所(モンペの正面で結び目のある附近)を引張ったとしても二重に締めた紐は強く絞るようになるだけで、しかく簡単にその付根部分が切れるかどうか、一応疑問の余地がある。また、(Ⅱ)右のようにして紐を引張った際に前側の紐の付根部分がたとえ切れたとしても、それは結び目を解かないかぎり一本の紐状となって被害者の腹部に巻きついたままであり、しかも後側より締めた紐は依然そのままの状態にあるから、モンペを脱がすことは多分に困難さを伴うものであると推測されるところ、被告人供述では、単に「まくり下げて脱がした」としているだけで、右の疑念を解明すべき特段の説明を付加していないのである。

しかしながら、まず(Ⅰ)の点については、宮崎コヨの検調(東地二の五―一〇〇丁裏)、前掲祐川むつの東地裁証人調書(東地一の六―一一二丁裏)及び強姦強盗殺人被疑事件現場写真記録番号9・16の各写真などによると、前記浅黄のモンペは被害者が日常着用しており多分に着古したものと窺われるのであって、それに手をかけ引張った場合には、その位置(被告人は単に「腹の所」と供述しているが、腹部正面附近に限定する趣旨とまでは解し難い)、力の掛け具合など如何により紐の一方が容易に切れる事態をあながち否定できないし、また(Ⅱ)の点についても、犯行当時被害者は炬燵にあたっていたというのである(被告人の二七・三・四付員調及び同一七付検調・東地二の二―四三七・四六八丁)から、寛いだ状態でモンペの紐を緩めていたものと推測する余地もあり、したがって、モンペの前後の紐を解くことなく、そのまま脱がすことも可能であった、とみられないわけではないから、結局右疑念とするところは必ずしも解消困難なものとはいえないであろう。

(ロ)  長内芳春の供述について

同供述のうち、被害者の平素の就寝状況を偽装すべく、伯母の使用していた布団に寝かせる形にしたうえ掛布団を額まで掛けたとするところは、前記(一)の(1)に認定した現場の状況に符合しているものとみることができる。

しかしながら、同供述では、モンペ及び片方ずつ別々に放置されていた靴下の位置・状況につき、明確にこれを説明するところのない点において、現場の状況との適合性を肯定することは困難であるといわなければならない。

もっとも前記2(二)(3)の(ロ)に説示したとおり、被害者は犯行当時針仕事をしていたものとも推認できるところ、同供述では、犯行偽装のためにその対象物を被害者の枕元に移し変えたとしており、それが「モンペ」であったとするならば、大筋において現場の状況と符合するものとみられないわけではない。しかし同供述においては、針仕事の対象物は「仕立中の女の着物」であったとしているのであり、この点は犯行偽装という、意図的行為に関するものであるだけに、「モンペ」をもってこのように誤認したとか、年月の経過により記憶が混同したものとまでは、その可能性を完全に否定できないにせよ、たやすく考え難いところであるし、また、たとえ右のような誤認或いは記憶の混同により「モンペ」を「仕立中の女の着物」と取り違えたとしても、犯行現場の状況のうち、モンペとともに枕元附近に放置されていた片方の靴下については、これを移し変えたとする供述部分がないところである。ただ強姦強盗殺人被疑事件現場写真記録番号13の写真(東地二の二―四一三丁)から明らかな如く、靴下といっても布製で足袋のカバーのような形をしており、しかも被害者の足に比べかなり大きめのものであったことからすれば、或いは被害者を四畳半の部屋から六畳間寝室の寝床に引きずるようにして運び入れる際に、その片方が枕元附近で脱げたとの事態も推測できるが、そのような事態が生じるのは、同供述によると遅くとも「モンペ」の移し変えという、偽装行為が行なわれる以前のことであって、靴下がモンペの上になるといった状態は、まず生じないものと考えられるのに、前掲現場写真記録番号6・7の各写真(東地二の二―四〇九丁裏~四一〇丁)によると、枕元附近にある片方の靴下はモンペの上に重なったような状況にあることが看取できるから、右犯行の途中で脱げたとも考え難い。したがって、この点でも同供述によっては説明が困難であるといわなければならない。

(ハ)  要するに、被告人供述は、必ずしも解消困難な疑念はなく、一応犯行現場の状況に適合しているものといえるが、長内芳春の供述については、それとの適合性を肯定することは困難といわなければならない。

5 アリバイ関係について

(一) 被告人について

(1)  被告人の自白の要旨は、「自宅で夕食後、里村商店に煙草と菓子を買いに行き、その足で被害者方に赴き、午後六時三〇分ころから午後七時ころまでに本件犯行を遂げ、そのまま自宅に帰り、家族と約三〇分位炬燵にあたってから就寝した。」というのであり(二七・三・四付員調・東地二の二―四三五丁~四四一丁、同八付員調・同記録―四六〇丁、同一七付検調・同記録―四六七丁裏~四六八丁)、否認後は、「右のとおり里村商店に行って煙草等を買ってから直ぐ家に帰り、午後八時ころ就寝し、その後は外に出ていない。」旨弁解するものである(二七・三・二三付検調・東地二の二―四八〇丁裏~四八一丁、原第一審公判調書中の被告人の供述記載部分・同記録―五八五丁裏~五八六丁など)。

(2)  しかして、被告人が午後六時すぎころ里村商店で里村セツから煙草等を買ってすぐ店を出たことは明らかであり(長内義昭、里村セツ及び里村隆の原第一審各証人調書・東地二の一―二一八丁・二四〇丁、二の二―五二六丁裏、里村セツ及び里村隆の二七・三・三付各員調・東地二の三―六五丁裏、二の五―一一六丁裏など)、かつ午後八時ころには家族と就寝したことは否定し難い(米谷雪枝の二七・三・二付員調及び原第一、第二審各証人調書・東地二の三―八四丁、二の一―二九九丁、二の二原第二審―五一丁、長内はるの員調、検調及び原第一審証人調書・東地二の三―一〇七丁裏~一〇八丁・一一二丁、二の一―三一二丁、長内隆一の二七・三・五付員調及び原第一審証人調書・東地二の四―二三丁裏、二の一―三三三丁裏)から、問題は、被告人が同店を出てから帰宅するまでの外出中の時間である(長内義昭、里村セツ及び里村隆らはいずれも被告人が店を出た後どの方向に行ったかみておらず、他に被告人の行先を目撃した証拠はない)。

ところで、被告人方から里村商店までの片道距離は僅か約二〇〇メートルで、その通常の徒歩所要時間は約三、四分であり、また、被害者宅までは約三五〇メートルでその所要時間は約六、七分にすぎず(裁判所書記官作成の五〇・一二・一二付歩行実験結果報告書・再審七―二一四六丁、原第二審検証調書。右所要時間は、積雪のない時期のもの)、被告人が里村商店では煙草等を買ってすぐ店を出たのであり、特段時間を費したことは窺われないのであるから、被告人方を出てからせいぜい四〇分程度もあれば、犯行を遂げて帰宅できるものと推認して差支えないであろう。

しかるところ、被告人が午後六時ころ(或いは午後六時すぎころ)家を出てから帰宅するまでの外出中の時間につき、米谷雪枝は約一五分位と、また雪枝の母長内はるは約二〇分位と、それぞれ供述する(米谷雪枝の二七・三・二一付検調及び原第一、第二審各証人調書・東地二の三―九六丁、二の一―二九八丁裏、東地二の二原第二審―五〇丁、長内はるの検調及び原第一審証人調書・東地二の三―一一二丁、二の一―三一六丁)。

しかしながら、米谷雪枝は、当初司法警察員の第一、第二回取調べの際には、被告人の行先につき、隣り(便所のこと)に行くといって出たが、その後何処に外出したか明らかでない趣旨を述べ、もちろん煙草に触れることがなかった(二七・三・二付及び同五付各員調・東地二の三―八四丁~八五丁・九二丁)のに、検察官の取調べにおいて、里村商店へ行って煙草を買ってきた旨をあらたに述べるにいたったものであり(同人の検調・東地二の三―九六丁)、しかも、外出中の時間について、司法警察員の第一回取調べでは「約五分位」といい(東地二の三―八三丁)、第二回取調べの際には「夫が帰ってきた時間は時計をみていないのでわからない」旨(同記録―九一丁)述べ、さらに検察官の取調べ以降、右のように約一五分位と供述するのであって、同人の供述中被告人の外出時間等の関係では、極めて重要な点で変遷があって、この点については、にわかに採用できない。

また、長内はるも、司法警察員に対しては、「被告人は何処へ行ったかわからないが、二〇分位で帰って来た。便所へ行ったと思っていた。」旨(同人の員調・東地二の三―一〇七丁裏)供述をしていたのに、検察官の取調べ以降にあらたに煙草に触れる供述をなすにいたった(同人の検調・東地二の三―一一二丁)ものであって、右米谷雪枝の供述同様たやすく措信できない。なお、雪枝の祖母長内きゑは、原第一審においてはじめて、この点につき「ほんのちょっと出ていった。」旨供述するのである(東地二の一―三二五丁)が、同人の供述内容には矛盾が存し、かつ曖昧なものであって、これまた措信できない。

次に、雪枝の弟長内隆一は、「被告人は何処に行くのか黙って普段着のまま長靴を履いて出ていった。その後相当長い時間約二、三〇分してから帰ってきた。」旨(同人の員調・東地二の四―二三丁)供述するところ、右時間は被告人方と里村商店の往復に通常要する時間よりかなり長いものであることは前認定に徴して明らかであるし、右供述は、二、三〇分間に限定する趣旨というよりも、感覚的にかなり長時間であった旨の表現とも理解できるのであるから、或いは三〇分を超える外出時間があったことまでも否定するかどうか疑問であるうえ、かりに右二、三〇分に限定するものとしても、同供述中にこれを客観的に裏付ける事情はなにも認められないのであるから、いずれにしても、同供述によっては、未だ被告人の外出していた時間内に犯行を遂げ得る余裕がなかったことを肯定せしめるにたりない。なお、右長内隆一は原第一審における証人尋問の際、被告人の外出していた時間を約二〇分位と明確に供述するにいたっている(同人の原第一審証人調書・東地二の一―三三三丁)が、たやすく採用し難い。

他に、被告人弁解のアリバイに直接ふれた証拠はなんら見当らないから、右弁解は認め難く、外出中における犯行の時間的余裕の存在を否定できないものといわなければならない。

(二) 長内芳春について

(1)  長内芳春の自白の要旨は、「自宅で夕食をしたのち、午後六時か六時半ころ家を出て、まさか弟(義昭)が伯母の家にいるのでないだろうなどと思って伯母の家へ様子を見にいき、約五分か一〇分位いただけで同所を出て、途中里村商店で煙草を買って同店から東方一〇〇メートル位の距離にある鎌田孝一方に行った。鎌田方でトランプをやり、午後九時半ころになりそろそろやろうかと思って、同所を抜け出て再度被害者方に行った。被害者方で犯行を遂げ午後一〇時ころそこを出て、そのまま鎌田方に戻って、トランプを続けたうえ、午前一時か二時ころに鎌田方を出た。」というのである(四一・四・八付員調・東地二の六―一〇一丁~一〇三丁・一一〇丁~一一二丁、同五・三一付検調(A)、(B)・同記録―一五四丁裏~一五八丁・一九一丁~一九五丁)。そして犯行否認後は、鎌田方に遊びに行ってから午前一時ころ帰るまで中座したことはない旨弁解する(四二・二・二三付検調・東地二の六―二一五丁裏)。

なお、当初捜査官に対し、犯行を遂げて被害者宅を出た際に、共同墓地内に柴田武良ら家族がいるのを目撃し、引き返すと不審に思われると考え、そのまま自宅まで歩き、その間に五分か一〇分位隠れて武良らをやりすごしてから鎌田方へ行った趣旨の供述をなし(四一・四・八付員調・東地二の六―一一〇丁~一一一丁、同五・三一付検調(A)・同記録―一五五丁~一五七丁、録音テープ二巻裏、同録音テープ録取書・東地二の七―九一丁~九二丁)、後に、武良らを目撃した時刻を、午後七時前に被害者方へ様子を見に行った帰りであったかも知れない、と変更する(四二・二・二一付検調・東地二の六―二〇九丁)。そして、犯行を全面否認した後においても、「当日の晩は伯母方には一度しか行っていないと思う。柴田の家の者に会ったのは夕方、六時か七時ころ伯母方に行ったときの行きか帰りしなであったと思う。」旨供述しているのである(四二・二・二三付検調・東地二の六―二一八丁)。

(2)  川島明(一回)、中村きせ及び鎌田とめの各員調(いずれも昭和二七年当時のもの。東地二の三―三九丁~四〇丁裏、一六五丁~一六九丁、一七一丁~一七三丁)、鎌田マツの原第一審証人調書(東地二の二―五四一丁~五四二丁裏)、鎌田孝一の東地裁証人調書(東地一の五―一四一丁~一四四丁裏、一四七丁)並びに長内雄候の原第一審、東地裁各証人調書(東地二の二―五四七丁~五四八丁、一の五―二八一丁~二八二丁・二八四丁裏~二九四丁)を総合すると、事件当日、長内芳春が自宅で夕食を済まして、午後六時半ころから午後七時ころまでの間に鎌田孝作方へ行き、同所でトランプ等をやって遊び、翌日午前一時ころ同所を出たこと、鎌田方では、長内芳春のほか、長内雄候、鎌田清春、相馬勇作、川島明及び同孝作の家族である鎌田孝一、孝一の妻、鎌田とめ、中村きせ(いずれも孝一の妹)、孝一夫婦の子供達など多数の者が集まって賭けトランプや、「どっぷ」と呼ばれる遊びをしていたことが認められる。

そこで、長内芳春が右鎌田方を途中抜け出たことがあったか否かが問題となる。ところで、裁判所書記官作成の五〇・一二・一二付歩行実験結果報告書(再審七―二一四六丁)によれば、鎌田方から被害者方までは、約二三〇メートルで、通常歩行所要時間は約四、五分であるから、鎌田方を出てから犯行を遂げて同家へ再び戻るまでの所要時間としては、自供にかかる約三〇分間程度で十分であると推認できる。

しかるところ、鎌田とめは、前掲員調(東地二の三―一七三丁)において、「長内芳春は夕食後の午後七時半ころ遊びに来てから、どこへも出ることなく、ただ、午後一二時一寸すぎに川島明と自分の三人で隣に炭を借りにでただけである。」旨述べている。

しかしながら、当夜は鎌田方に前記のように多数の者が集まり、人の出入りが激しかったうえ、一回あたり約三〇分間程度の停電が四回もあったほか、同人方の便所は戸外にあるため同便所への出入りなども多く、集まった者達が他の者の行動を終始注意しているなどの状況になかったことが窺われ(長内雄候の前掲東地裁証人調書・東地一の五―二八一丁・二八四丁~二八七丁・二九一丁~二九三丁)、したがって、長内芳春がトランプ等のメンバーから離れた際、或いは停電の機会を利用して、本件犯行のため他の者に見咎められることなく三、四〇分程度鎌田方を抜け出すことは十分可能であったものと推認できるところ、鎌田とめの前掲員調においては、同女が特に長内芳春の行動等に注意を払っていた趣旨の具体的供述は全く存在しないのであるから、同女において、当時長内芳春が中座して外出したことがあるか否かを確実に認識していたものか極めて疑問であって、この点に関する同女の前記供述部分はにわかに措信できない。

また、同女(黒石に改姓)は、東地裁の証人尋問(四二・一一・一七 施行)においても、長内芳春は午前一時ころ帰宅するまでずっと一緒にいた趣旨を供述している(同女の東地裁証人調書・東地一の五―二一二丁裏・二二二丁)。しかし同証言においては、前記のように、当夜は鎌田方には実兄の鎌田孝一もおり、トランプが行われていることが明らかなのに、これを否定するといった不自然な点が存すること、昭和二七年当時における司法警察員の取調べの際に、どのような供述をしたかについて、記憶喚起の尋問が試みられても、長内芳春の点に関してすら殆んど記憶を喚起できない状況であり、自ら「事件当時のことは忘れちゃって、ただ芳春だけは来ているということだけはわかっている。」などと述べる(同記録―二二六丁裏)ように、当夜の記憶は曖昧であること、そして、それにも拘らず長内芳春が自己と一緒にいた旨強調するが、当夜の鎌田方では前記のように停電等のため、長時間にわたり来訪者の動静に注意を払うことが困難な状況下にあったのに、前掲員調と同じく、それでもなお、長内芳春の行動を終始確認していたものであることを納得させるにたりる説明が存在しないこと、などを考慮すれば、右証言もまたとうてい措信できないところである。

次に、中村きせ(鎌田に改姓)も東地裁証人尋問(四二・一一・一七施行)において、実妹の右鎌田とめの東地裁供述と同趣旨の供述をしている(鎌田きせの東地裁証人調書・東地一の五―一七四丁裏・一八一丁~一八二丁)。しかし、同証言においても、右とめの東地裁供述と同じ不自然な点が存するうえ、中村きせの前掲員調では、当夜長内芳春達が何時帰ったかわからず、翌朝本家に顔を出したとき(当夜長内芳春らが集ったのは母屋であり、右きせは同じ敷地内に建てられた離れに居住していた。同女の東地裁証人調書・東地一の五―一六五丁裏・一七二丁裏)、妹のとめから芳春達が午前一時ころ帰ったことを聞いた趣旨の供述をしている(東地二の三―一六六丁裏~一六七丁)にすぎないのに、その後の東地裁証人尋問では、右のように「長内芳春が午前一時ころに帰るまで、自己とずっと一緒にいた。」旨供述するにいたったところ、この点の供述変更につき首肯しうる理由の説明は全く存しないうえ、もとより長内芳春の行動に終始留意していた事情はなにも認められないのであって、同証言もまた措信できないものである。

そうすると、長内芳春の自白にかかる、午後九時半ころから三、四〇分間位の時間的余裕につき、そのアリバイを肯定するにたりる証拠はなく、他の者の注意を惹いたり、咎められることもなく鎌田方を外出する可能性が存在したことは否定し難いところである。

なお、長内芳春が自宅で夕食を済ましてから最初伯母方に様子を見に行ったとする時間的余裕の存在については、これに疑問を挾むべき証拠は見当らない。

(三) 要するに、被告人及び長内芳春の各自白にかかる犯行時刻におけるアリバイは、いずれも成り立ち難いものであり、その各犯行時刻とも、被害者の死亡推定時刻に矛盾しないことは前記第四の四3に説示したとおりである。

6 被告人の原第一審公判以来の態度について

被告人は原第一審公判以来犯行を全面否認したものの、目撃証人に対する裁判所外の証人尋問の際においては、裁判長(受命裁判官)から反対尋問の機会が与えられながら、その都度、「何も尋ねることはない」旨消極的態度を示し、最終陳述においても、「何も述べることはない。」と陳述するだけであったこと(東地二の一―一五六丁以下、二の二―六〇二丁裏)、また昭和二八年八月二二日控訴棄却の判決を受けたが、その数日後の同月二七日ころには早くも上告を断念したこと(押収してある身分帳((昭和五一年押第五一号の一一))のうち同日付発第四八号)、さらに、服役して刑期が終了したのちも無罪を強く主張することなく、仮出獄後九年六ヶ月余を経過し、長内芳春が起訴されたのちに、はじめて本件再審請求に及んだことが認められるのであり、これらの事実によれば、被告人が自己の無罪主張につき必ずしも積極的であったものとはいい難いもののようではあるけれども、かかる事由は自白の信憑性判断につきさして重視すべき事柄ではない(なお、原第一審公判以来上告断念にいたるまでの、被告人より妻雪枝等親族に対する数多くの書簡をみると、被告人が有罪となることに不満を有していたことが窺われないではない。前掲身分帳、当審供述・当審六―一丁~四〇丁)。

四 長内芳春の自白

1  自白に至る経緯

(一) 長内芳春の戸籍謄本(東地二の六―二三一丁~二四〇丁)及び土屋友作、有田武雄、佐山ちよえ、長内つげ、毛利さとの東地裁各証人調書(東地一の四―一〇二丁・一二一丁、一の六―三丁各以下・二〇三丁~二一五丁・二五九丁以下)並びに長内芳春の二七・三・三付員調、同二〇付検調(参考人として事情聴取された当時のもの。東地二の三―三丁裏・一八丁裏各以下)によると、長内芳春は高田村(現青森市)大字小舘字桜苅一九一番地で農業を営む父石藏の四男として出生し、本件事件当時同地で家業の手伝いや、日雇人夫をしており、被告人と交遊関係があった。しかして、捜査機関により本件犯人の嫌疑をうけたものの、アリバイが認められて嫌疑が解消され、昭和二八年一月から翌二九年八月まで警察予備隊に入隊し、退職後北海道、青森などでトラックやタクシーの運転手などを転々し、その間昭和三一年に毛利さとと結婚して三女を儲けたが、昭和三三年ころ坂本ちよえと帯広市で同棲するようになり、同年一〇月さとと協議離婚し、翌三四年にちよえとの婚姻届を提出し、同女との間に二女を儲け、釧路、旭川、青森でタクシーの運転手などをした後、昭和三八年ころ神奈川県川崎市に移りタクシー運転手をしていた。しかし、同年一二月ころちよえも、芳春が子煩悩ではあるが、飲酒酩酊すると同女に粗暴な振舞いを重ねることに耐えられず、当時の横浜市の住居に二女を残して青森県内の同女の実家に戻ってしまった。芳春は同女に再三帰宅を求めたが、峻拒されたため、同女に強い未練を残しながらも、やむなく昭和三九年五月調停離婚した。その後芳春は、二女を自己の実家に預けて、大阪、横浜、東京など、職場を転々としながらタクシー運転手をしていたが、酒に耽溺し、生活は荒れていた。以上の事実が認められる。

(二) しかして、関係証拠によると、芳春は昭和四〇年八月一〇日青森地方裁判所において窃盗(自動車窃盗)及び詐欺(無銭飲食)罪により懲役一年六月、執行猶予四年(保護観察付)に処せられていたところ、昭和四一年一月三〇日詐欺(無銭飲食)被疑事件により警視庁本所警察署に逮捕・勾留され、同年二月七日東京地方検察庁において起訴猶予処分にされたものの、その後同月二三日実家に戻ったところを青森警察署において暴力行為等処罰ニ関スル法律違反被疑事件(元の勤務先であった都内のタクシー会社役員らに対し解雇されたことに言い掛りをつけて『殺しに来た』などと脅迫した事件)で逮捕されたうえ、再び本所警察署に勾留され、同年三月五日勾留のまま東京地方裁判所に脅迫罪で起訴され、さらに同月一六日窃盗(自動車窃盗)の余罪で追起訴されて、同警察署留置場に引き続き未決勾留されていた。右脅迫等被告事件につき同年四月三〇日懲役一年の実刑判決を受け同年五月一五日これが確定し、以後この刑で服役していたことが認められる。そして、川村雄逸の東高裁証人調書及び伊藤良喜の東地裁証人調書(東高二―四五六丁、東地一の七―五〇丁各以下)によれば、その間の同年四月六日に右留置場内を巡廻していた同署勤務の看守係巡査川村雄逸に対して、「だいぶ古いことだが殺人を犯し、自分の友達が犯人となり身代りとして刑務所に入った。そのことで刑事に会いたい。」旨述べ(東高二―四六一丁裏以下、東地一の七―五五丁)、そこで小笠原恒久刑事が当日事情を聴取し、翌七日及び八日の両日には、司法警察員伊藤良喜巡査部長が取り調べを行ない、その際とくに、「一四年前の殺しとなると、時効は一五年だし、前に犯人が捕まっているというし、今更ここであらだてなくてもよいではないか。」と諭し、「裁判の結果はどうなるかわからないが死刑になるかも知れない。」と説いて慎重な考慮の余地を与えたが、長内芳春は「私がやっているから、いろいろ聞いてくれ。」と述べて(東地一の七―五七丁以下)、積極的に本件犯行を自白するに至ったことが認められる。

2  自白の任意性

長内芳春は、右経緯のとおり自発的、積極的に本件犯行を供述し、右伊藤司法警察員により、小笠原刑事の立会いのもとに昭和四一年四月八日最初の供述調書が録取されたのであるが、当初から、犯行の動機・方法等犯行全般について極めて具体的、詳細な自供をなしていた。

そして、右伊藤司法警察員においては、本件犯行に関するなんらの資料も持たず、その供述するとおりに調書を作成したものであり(同人の東地裁証人調書・東地一の七―六六丁)、五月一七日以降、本件犯行について同じくなんら資料(被告人の本件確定事件記録など)を見ることのなかった検察官山崎恒幸による取調べをうけるにいたったが、その取調を開始するにあたって、同検察官から、若し警察で虚偽の自供をしたのであれば撤回するよう促がされたのに対し、「自分の犯行に間違いない。現在は良心の苛責に堪えられないので総てを打明けて法の裁きを受けたい。その覚悟もできている。未練心が出ないうちに早く処分して貰いたい。」旨供述して、同日以降同月二四日まで四回にわたる録音機を使用した取調べに自発的に応じ(検察事務官作成の「長内芳春の供述内容録音について報告」と題する書面・東地二の六―二六三丁、山崎恒幸の東地裁証人調書及び当審供述・東地一の七―八六丁~八九丁、当審五―四六三丁~四六五丁)、以後昭和四二年二月二一日までの間司法警察員による取調べ一回のほか、検察官の五回にわたる取調べにおいても同旨の自白を繰返し(なお、昭和四一年一一月二七日には、自白の信憑性確認のため山崎検察官に代って検察官中野博士が取調べにあたったが、自供を変更することがなかった)、昭和四二年二月二一日強盗殺人・強盗強姦未遂被疑事件により逮捕され、翌二二日の裁判官による勾留質問においても、「被疑事実は全部間違いない。警察、検察庁で無理な取調べをうけたことはない。私の言ったままを調書にとってもらった。録音テープをとるときも知らされていたので、私も知っている。但し事件が古いことなので細いことについては想像で言ったこともある。」旨任意の自白であることを供述していた(長内芳春に対する勾留質問調書・東地二の六―二二七丁)。

要するに、長内芳春の自白は、極めて自発的、積極的なものであって、強制、誘導等の要素は全く存在せず、その任意性に疑念を挾む余地はない。

3  自白の信用性について

(一) 自白の動機

この点に関して述べるところは、長内芳春の四一・四・八付、同六・一二付の各員調及び同五・三一付検調(A)からこれを摘記すると、「……昭和三七年一二月川崎に出て来て東京でタクシーの運転手などをして本件犯行を忘れよう忘れようと思って深酒を飲むようになったが、忘れることができず夢で伯母さんの顔がはっきり出て上からかぶさってくることが何度もあって罪の償いをしなければならないと思った。」(東地二の六―一一六丁)、「犯罪を犯してからはいつも悩んでいました。初めのころは親兄弟にこんな大罪を犯したという事が世間に知れては迷惑がかかると思って隠しておりました。その後結婚し、世帯を持ってからは、家族や子供の事を考えやはり隠そうという気持が強く心の奥底に悩みを持って暮して来ました。その後三八年一二月初めころ、二度目の妻と別れてからは子供を私の実家に預けまして、何とか生活を落着かせようとして方々のタクシー会社や荷揚人夫までやりまして働きましたが、一人身の淋しさから酒等を飲むとつい昔の事件の事などを思い出してしまい、どうせ俺は懲役に行かなければならない身だと心がすさび、やけ気味になってしまって深酒をしたり、人にからんだりしてしまって、ついトラブルを起こし、一定のところへ永く働く事が出来ませんでした。……そのうち今回捕った暴力行為の事件を起こし、本所警察署に今迄の事を前のかあさん(川村すな)をやって(殺した)しまった事をすべて話して心のわだかまりをなくして、きれいな身体になろう。それから子供に会おうと決心した。」(東地二の六―一三〇丁裏~一三二丁)、「事件後から数えきれない程伯母の夢を見て、伯母が夢枕に立ち黙って笑いもしないで普段のままではっきりと顔を見せ、それが段々大きくなってきて自分に覆いかぶさるようになった。……今までは余り事件が大事なので捕る度に白状しようと思いながらそうしきれずに居たのですが、最愛の妻ちよえとも別れてからいよいよ生活に自信がなくなり、今度の事件では実刑を免れないと覚悟したので子供も小さいうちに一切を清算して罪の償いをしようと決心した。」(東地二の六―一六七丁裏以下)などというものである(録音テープにおいても同趣旨を繰返し述べている。録音テープ第一巻表・裏、第四巻表、第六巻裏、各テープ録取書・東地二の七―二二丁~二八丁裏、二の八―三六丁~四二丁、二の九―四六丁~四七丁)。

要するに、本件告白の動機は、罪の意識に悩まされながらも、家族や子供達のことを考えて長い間告白できないできたが、愛する妻ちよえとの離別による孤独感も加わり、このままではますます生活が荒さむばかりであるから、別件で服役する機会に、罪の償いをして立ち直ろうと決心したというものであって、そこで供述している告白当時の生活状況等については、前記1の(一)のとおり客観的に裏付けられており、告白に関する供述内容自体に別段不自然なところはない。そして、告白当時は、脅迫事件等の被疑事実の取調べは終了しており、かつ余罪の取調中でもなく(前掲伊藤良喜の東地裁証人調書・東地一の七―五二丁~五五丁裏)、芳春にとってなんらの利益を得るわけでもないのに、厳刑を課されることになるかも知れない危険を侵して、あえて自白し、長期間にわたってこれを維持したのである。そこでこれらの事実を併せ考察すれば、芳春が性格的に自己顕示的傾向の強いことを考慮しても、なお自白の動機とする点はそれなりに納得できるものといわなければならない。

もっとも、芳春の自白撤回後の四二・二・二三付検調(東地二の六―二一四丁裏~二一五丁)及び東地裁第五回公判調書中の供述記載部分(東地一の一―九九丁・一六七丁)において、同人は妻ちよえに去られてしまったので、自暴自棄になり、長期間服役しても或いは死んでもよいとの気持から虚偽を述べた旨弁解しているのであるが、自白しながらも、終始子供の身を案じており、かつ、自白後間もないころ、「これで終わらせて貰えば早く刑を終えて子供に会える、反面、どうしてもそれで服役しなければならないなら、どんな刑でも受けると思っている。できれば、このまま事件をここで納めてもらえれば、それより幸せなことはない。」(録音テープ第六巻裏、同テープ録取書・東地二の九―四七丁裏)とか、「私は伯母殺しの事件をこのまま済まして貰えれば、一日も早く真面目に暮そうと思っている。」と述べ(四一・五・三一付検調(A)・東地二の六―一七三丁)、また自白撤回の二日前にも、「今では事件の告白をしたことについていらぬ事を喋ったと内心後悔しており、できれば起訴されたくはないと思っている。この前、中野検事が拘置所に調べに来たときにも、やっていないと言い直そうと思ったが、実際に自分でやったことだし、すでに言い出してしまった以上仕方がないと思って思い直した。」と述べている(四二・二・二一付検調・東地二の六―二一二丁)ことなどからすれば、罪責を果たそうと考えながらも、刑の軽からんことを願う、人間として正常な心理的状態にあったことが窺われないでもないから、右の弁解にはたやすく納得でき難いものがある。

なお、芳春の東地裁第一一回公判調書中の供述記載部分(東地一の七―一二四丁~一二五丁)において、同人は警察の留置場では食事が少なく空腹であったから、刑事部屋で食事をさせてもらうため虚偽自白をなした旨の弁解をなすが、川村雄逸の東高裁及び伊藤良喜の東地裁各証人調書に照しても、自白したために食事を提供したとの事実は窺われず、かつ、関係証拠によると、芳春は前記のように昭和四一年五月一五日脅迫・窃盗事件の有罪判決が確定し、同年六月一三日以降は本所警察署から東京拘置所に移監され、以後同署に戻ることなく、同拘置所や中野刑務所などにおいて右刑の執行を受けていたものであって、同年一一月一七日の検察官による右拘置所内での取り調べにおいても、犯行態様などについて積極的に供述をし、自白を維持していたことが認められるから、右弁解はとうてい措信できないところである。

以上要するに、長内芳春が自白をなすにあたり、その動機として説明するところは、格別不自然な点はなく、一応理解できるところである。

(二) 自白の全般

まず、前記のとおり、自発的、積極的に昭和四一年四月六日本件の真犯人であると名乗り出て、翌七日司法警察員に犯行を自白して以来、翌四二年二月二三日にこれを翻えし否認するまでの一〇ヶ月余りの長期間にわたり、四名の捜査官の取調べに対し、詳細な自白を維持してきたものであるところ、「被害者を殺害してでも金員を強取しようと企て、あらかじめ被害者方に様子を覗きに赴き、鎌田孝作方で賭けトランプをして時間をつぶし、再度被害者方に行って、前記(三の2(一)(2)の(ロ))の絞頸方法で殺害した後姦淫の意思を生じて、前記(三の3(一)の(2))の姦淫行為に及び、その後室内を物色して約三〇〇円位を奪取して、再び鎌田方に戻り、賭けトランプに加わり右金員を賭金に一部費消した」旨の犯行の動機、犯行時間、犯行方法(絞頸及び姦淫状況)、犯行前後の状況等主要な部分の供述は終始変更がなく一貫しているのである(長内芳春の真犯人として名乗り出た昭和四一年以降に作成された員調「三通」及び検調「四二・二・二三付を除く五通」、同人作成の上申書・東地二の六―九一丁・一二三丁・一三〇丁・一三四丁・一四六丁・一七六丁・一九九丁・二〇六丁・二一三丁・二二〇丁各以下、押収してある供述録音テープ全六巻((当裁判所昭和五一年押第五一号の五乃至一〇))、同録音テープ各巻録取書・東地二の七・二の八・二の九冊、検察事務官作成の四二・六・一二付「長内芳春の供述内容録音について報告」と題する書面・東地二の六―二六三丁以下)。

なお、自白を翻えした際においても、はじめのうちは、事件当夜被害者方に二度とも行ったことを認めるような態度を窺わせたが(山崎恒幸の東地裁証人調書及び当審供述・東地一の七―一〇三丁裏、当審五―五二五丁・五八〇丁裏)、結局は前記三の5(二)の(1)のとおり、一度被害者方を訪れたことがあり、その時柴田武良らに会った旨の供述を維持しているところであって、この点は、柴田武良らの誤認の可能性を示唆するとともに、芳春供述の信憑性を支える一事由とも考えられる。

(三) 頸部・胸部創傷及び姦淫状況に関する適合関係等

長内芳春が自白していた加害手段及び姦淫行為(膣内射精の有無)に関する供述内容は被害者の頸部・胸部創傷の成傷原因及び姦淫の状況との間に格別矛盾がなく、いずれも適合性を認めることのできることは、前記三の2及び3に説示したとおりであるところ、長内芳春において被害者方の平素の室内状況や生活状況に多少の認識を有しており、かつ近親者として事件に強い関心を懐いて家族或いは村人らと事件内容を推測し合ったり、当時の新聞報道に注目していたことが認められる(東地裁第五回、第一一回各公判調書中の長内芳春の供述記載部分・東地一の一―一八四丁裏・同一の七―一七二丁、同人が読んだという当時の東奥日報の新聞記事については、東地二の六―二七一丁~二七八丁裏)としても、これらによる知識などからは、当時の捜査機関さえ予想していなかった犯行態様(工藤「旧姓梅木良男」及び三浦永作の東地裁証人調書・東地一の二―二一五丁~二一七丁・二九〇丁~二九三丁、被告人に対する逮捕状請求書・東地二の四―七八丁裏)に関する前記のような詳細かつ具体的な供述は容易になし難いものと考えられるのである。

そして、その自白中には、「被害者を絞頸しようと様子を覗っているうちに急に喉が渇いたので、勝手場に行って柄杓で水を一杯飲んだ。」(四一・四・八員調、同五・三一検調(A)・東地二の六―一〇四丁・一九五丁裏~一九六丁、録音テープ第二巻表、同テープ録取書・東地二の七―六四丁。なお、上野第一鑑定書((東地二の六―七四丁))では、この喉の渇きを覚えるのは、犯行前の精神緊張が自律神経の変調を来たし、交感神経過緊張の状態にいたり、唾液の分泌がとまったことによるもので、経験しないかぎり供述し難いものである旨説明している)とか、「絞頸後被害者の両眼のうち、一つは薄目になっており、他は普通と同じ位に開いてまるで生きて自分の方を見ているような感じがして気味が悪かったので、指でその上瞼を閉じさせた。それも一回では閉じないで二度位やって、両方が同じ位の薄目になった。その眼のことが後から一番気味の悪い思いになっている。」(右員調及び検調・東地二の六―一〇六丁裏・一四九丁裏~一五〇丁、長内芳春作成の上申書・同記録―二二四丁裏、録音テープ第五巻裏、第三巻裏、各テープ録取書・東地二の八―一六八丁、二の九―七〇丁・七六丁裏など)とか、また、「被害者の陰毛も見たが、年寄らしく薄くなっていた。」(右検調・東地二の六―一七二丁、録音テープ第五巻裏、同テープ録取書・東地二の八―一七五丁など)などといった、実際に体験しないかぎり、想像だけではたやすく説明し難いような供述部分が存在するのである。

(四) 自白内容の疑問点

長内芳春の自白は具体的、詳細であるだけに、不合理な点や客観的事実に符合しない点がいくつか認められるが、そのうち次の諸点に特に留意する必要がある。

(1)  本件犯行の動機に関する供述の要旨は、「かつて釧路市に居住していたとき、やくざの組織に入って、やくざの生活に馴染んでいたのであるが、本籍地に帰ってからもその遊び癖で遊興費が欲しかったところ、被害者が小金を貯えているとの噂があったので、その金を奪って北海道に行きやくざの頭目になって思うようなことをしたいと考え、犯行の三、四日前ころに被害者を殺害して金員を強取することを決意した。」、「絞頸後寝床の上に寝せたとき、着物の裾が乱れ真白な太腿が現われたので、急に姦淫の意思を生じた。」というのである(四一・五・三一付検調二通・東地二の六―一四七丁・一七八丁~一七九丁・一八六丁裏~一八九丁、録音テープ第一巻表・裏、第四巻裏、第五巻表・裏、各テープ録取書・東地二の七―三七丁~四九丁・七〇丁、二の八―一〇五丁~一一二丁・一六四丁など)。

しかしながら、まず金員強取についてみるに、釧路に居住していた当時やくざの組織に加入していたことを裏付ける証拠はなんら見当らず、むしろ佐山ちよえ及び長内つげの東地裁各証人調書(東地一の六―四六丁裏・二四九丁~二五四丁)に徴すれば、右事実の存在は多分に疑問であるばかりでなく、長内芳春の右供述内容自体、極めて漢然としたものであるし、また殺害の点に関しては、三、四日前にそれを決意したとするが、その具体的方法について、「殴り殺すよりも絞め殺そうと思っていたが素手でやるか、或いは手拭やマフラーを使うかについては考えが決まっておらず、そのいずれかの方法でやろうと思っていた。」というのであって(録音テープ第五巻表、同テープ録取書・東地二の八―一一四丁裏、四一・五・三一付検調(B)・東地二の六―一九〇丁)、計画的犯行にしては、不自然の感を拭い難いところがあり、さらに、姦淫の動機についても、未だ一八歳の未成年者であって、格別性的異常者とはいえない者が五七歳にもなる実の伯母を絞殺した直後というのに、その着物の裾が乱れ太腿が見えたからといって、これを姦淫しようという気を起すというのも、たやすく首肯でき難いところである。

要するに、本件犯行の動機には疑念を懐くべき余地が存するのである。

(2)  奪取したとする金銭の種類及びそれが在中していた財布の形態に関する供述の要旨は、「流し場のある部屋のテーブルの横にあった茶色がかった蟇口の中から『一〇円札二、三枚、五〇円玉二個位、一〇円玉十数個』合計三〇〇円位を取って着ていたちゃんちゃんこのポケットにバラで入れた。……中身を取った蟇口は元通り口金を締めて元の場所に置いた。……(鎌田孝一方で)トランプの賭けに負け一五〇円とられたので、伯母の処から取ってきた五〇円玉一個と自分が持っていた一〇〇円札で払ったように思う。」というのであるが(四一・四・八付員調・東地二の六―一〇八丁裏、同五・三一付検調(A)・同記録―一五三丁・一五五丁・一五八丁裏など)、日本銀行発券局長作成の五〇・一〇・二一付回答書(再審七―二〇八二丁)によると、一〇円及び五〇円硬貨は本件犯行当時未だ流通していなかったことが明らかであるうえ、右蟇口は、当初の実況見分時にも発見されておらず、被害者方にそれが存在したとの証拠はないのである。

また、「被害者は有り金を黄色の絹製のような三つ折位の大きめの財布に入れて肌身離さず身につけていたので、殺害しないかぎり金員を取得できなかった。」趣旨の供述をなすものであって(四一・五・三一付検調(B)及び四二・二・二一付検調・東地二の六―一八七丁裏~一八八丁・二〇七丁裏、録音テープ第四巻裏、同テープ録取書・東地二の八―八〇丁~八一丁裏)、これによれば、本件犯行は、右財布からの金員奪取が直接の目的となったわけであるから、右財布の存否も、信憑性判断にとって無視できない資料とみるべきところ、これも右蟇口と同様に被害者方から発見されておらず、被害者が平素所持していたとの証拠も存在しないのである。

(3)  犯行現場である六畳間寝室における、被害者の就寝状況・紐の切れたモンペ及び靴下が別々に片方づつ存在する客観的状況に関して、自白がこれと決定的に矛盾するとまではいえないにしても、その適合性を肯定することの困難なことは前記三の4(三)の(ロ)及び(ハ)に説示したとおりである。

また、姦淫後の状況に関して、「被害者の着ていた白の割烹着を引張って膝の上の辺まで達する長いのをきちんと整えてやった。」旨、たやすく記憶違いをすることの考え難いような具体的行為の説明をなしている(四一・五・三一付検調(A)・東地二の六―一四九丁、録音テープ第三巻裏、同テープ録取書・東地二の九―六七丁)ところ、右供述が客観的状況に反することは司法警察員作成の二七・二・二六付実況見分調書(東地二の二―三九〇丁・四一一丁裏・四一二丁)によって明らかである。

(五) 血液型と遺留精液斑との符合の可能性

長内芳春の血液型はA型の分泌型であるところ(前記第五の一の3)、遺留精液斑に関する各鑑定の直接の目的は、いずれも同精液斑と被告人血液型との符合の可能性の検討をなすものにせよ、上野第二、第三鑑定書及び山沢第一、第二鑑定書においては、遺留精液斑は分泌型精液に由来する可能性が強い、とする趣旨の指摘がなされているわけであるが、右各鑑定はにわかに採用できないこと前記第五の四の2及び3に説示したとおりであり、他に遺留精液斑と芳春の血液型の符合の可能性を積極的に肯定すべき証拠は存しない。また他方これを否定すべき証拠もない。

(六) まとめ

長内芳春の自白には、任意性に疑いを懐くべき余地はなんら存在しないものであり、自白の動機も理解でき、数人の取調官に対し、すすんで取調べに応じ、一〇ヶ月余りの長期にわたり自白を維持しつづけ、その重要部分をなす犯行の動機、犯行の方法及び犯行前後の行動について変遷することがないうえ、自白にかかる犯行時刻(午後九時三〇分ころ乃至同一〇時ころ)と死亡推定時刻との間に矛盾がなく、アリバイも認め難いし、とくに、犯行の核心部分で、実際に体験しないかぎり容易に客観的状況に照応する説明をなし難いような、被害者の頸部・胸部の成創原因及び姦淫状況(膣内射精の有無)に関する供述部分が犯跡と符合し、かつ体験に基づくが如き真実性を窺わせる供述部分が存するのであって、その信憑性は多分に高度のものといわなければならない。もっとも他面、犯行の動機が薄弱であるほか、犯行現場の状況との適合性を肯定することの困難な供述部分など信憑性に疑念を挾まざるを得ない要素も認められるのであるから、これらを総合評価するときは、他になんら補強証拠がない以上、その自白の信憑性は全面的にはこれを肯定し難いものではあるけれども、その信憑性は無視し得ないものがあると解される。

五 まとめ

以上検討したところによると、被告人の自白は、逮捕後三日目という早期になされたものであり、かつその任意性を肯定できること、そして、姦淫、絞頸の事実を認めながらも、捜査機関において被告人の所有であると見込んでいた現場に存在した手拭の所有及び逮捕・勾留の被疑事実とされていた金員強取の点を、いずれも一貫して否定しており(なお、殺意の点も同様である。被告人の二七・三・五付員調及び同一七付検調・東地二の二―四五〇丁・四七一丁~四七二丁)、とくに右手拭所有の否認の点は明らかに客観的事実に合致するものであること、さらに、事件発見当時における犯行現場の状況、すなわち被害者の枕元や身体の脇に存在していたモンペ・片方ずつ放置された靴下の位置や状態が自白の犯行方法に一応符合すること、その他、自白の犯行時刻と被害者の死亡推定時刻には矛盾がなく、被告人の弁解にかかる犯行当時のアリバイも認め難いことなど、信憑性を肯定すべき要素が少なくないのである。しかし、他方、仮に犯人であるとすれば記憶違いをすることがないと考えられる、姦淫の犯意形成時期・姦淫と絞頸との前後関係及び犯行態様などについて変転を重ねて、矛盾・不自然な点が存し、これらの変遷は捜査機関による意識的或いは無意識的誘導に迎合したことによるものとの疑念の余地を完全には払拭し切れないところであり(この観点からすれば、右の犯行現場との符合の点もさして重要視できない)、とくに犯行の核心部分である頸部・胸部の創傷、姦淫状況(膣内射精の有無)と自白との適合性について、多分に疑問が存するのであって、これらは信憑性判断にとって看過し難い問題点といわざるを得ない。そして、長内芳春の自白は、前説示のとおり、これを全面的には信用し難いものであるにせよ、かなりの信憑性を有することを否定でき難い以上、本件事案の特殊性に鑑み、被告人自白の信憑性判断の一要素として斟酌すべきところ、その信憑性の程度からして、やはり被告人自白の信憑性に疑念を生じさせる一資料とみなければならない。

要するに、被告人の自白は、それ自体における疑問点及び長内芳春の自白の信憑性の程度を総合してこれを判断すれば、その信憑性には合理的疑いが存するものといわなければならず、そして、これが補強証拠とみるべき目撃供述においても通行人が被告人であるとまでは断定し兼ねるものであってみれば、これを参酌しても、未だその信憑性を確信することには躊躇せざるを得ない。

第七結論

以上のとおり、目撃供述の信用性には軽視し難いものがあるにせよ、これをもって通行人は確実に被告人であったとまでは断定し得ないし、遺留精液斑と被告人との結びつきの可能性も肯定するわけにはいかず、また自白の信用性には合理的な疑念を免れないところであるから、結局において、本件犯行は被告人によるものであるとの確信を形成するにたりる証拠が存在しないことに帰着する。

よって、本件公訴事実につき犯罪の証明がないものとして、刑事訴訟法第三三六条に則り、被告人に対し無罪の言渡をなすべきである。

(裁判長裁判官 山之内一夫 裁判官 井上稔 裁判官平良木登規男は、転任のため、署名・押印ができない。裁判長裁判官 山之内一夫)

<以下省略>

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